ワタナベの妻(匿名希望)
夫の書斎の扉は、いつも少しだけ開いていた。中の様子を伺うと、そこは夫の思考そのもののような場所だった。机の上には紙の山、読みかけの本、そして無数の鉛筆が散らばっている。
一本の鉛筆が転がっているくらいなら、誰もそれを散らかっているとは言わないだろう。二本でも、五本でも、まだきちんと整頓されているように見える。それが十本を超え、十五本になったあたりから、見る者の心持ちは変わり始める。
机の片隅に、本が三冊重ねてあった。その横には、使われたらしい消しゴムのかす、読み終えた週刊誌、そして埃をかぶったメガネが置かれている。コーヒーカップには冷え切った液体が残され、文房具の入れ物からハサミと定規が顔を出す。そこには、数えきれないほどの付箋が、ちいさな丘のように積み重なっていた。
これらが一度に目に飛び込んでくると、誰もが「散らかっている」と口にする。しかし、どの時点でそれが「散らかり」と認識されるのか、正確な区切りはどこにあるのだろう。十本目の鉛筆だろうか。それとも十五本目か。その線引きは、誰にも決められない。
ある日の午後、私は夫の書斎に足を踏み入れた。夫は留守だった。私は机の上の鉛筆を一本ずつ手に取り、きちんと筆立てに収め始めた。最初は無造作に転がっていたそれらが、少しずつまとまっていく。
六本、七本と片付けても、まだ机は混沌とした様相を呈していた。八本目を片付けたところで、劇的に風景が変わるわけではない。九本、十本。一本一本、丁寧に、だが意識せず作業を続けた。
鉛筆がほとんどなくなったところで、読みかけの本を閉じ、種類ごとに積み重ねてあった紙の束を、引き出しの奥へと仕舞った。消しゴムのかすは小さな塵取りで集め、ゴミ箱へ。冷めたコーヒーカップを台所へ運び、ハサミと定規もそれぞれの場所に戻した。
十七本目の鉛筆が筆立てに収まったとき、景色が一変したわけではない。十三本目で突然「片付いた机」に変わった、というはっきりとした瞬間があったわけでもない。ただ、私は手を動かし続けた。
ふと気がつけば、もう机は散らかっていなかった。目に飛び込む情報の量が減り、そこには静かな秩序が宿っていた。鉛筆の数も本の数も、もう気にならなかった。ただ、夫がまた何か新しい思考を始めるための、白い余白がそこにあるだけだった。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。