タチバナコウヘイ(41歳・水道検針員18年)
二か月に一度、私は同じ順路を回る。ハンディ端末を起ち上げると、その家の前回値が画面の上に出る。蓋を開け、八桁のうち黒い五桁を打ち込むと、端末が前回との差を引き算して、検針票の「前回比」の欄に刷り出す。十八年、私の仕事はこの引き算の手伝いのようなものだ。家の中は見ない。見るのは、足元の数字だけだ。
その朝も住宅街はしんと静まり返っていて、初夏の光が空き地の雑草を白く照らしていた。坂の中ほどの家で、私は端末の前回値を見て、手を止めた。前回二十二 m³。打ち込んだ今回が、十一 m³。ちょうど半分だった。割り切れる数字は、かえって落ち着かない。
理由を、私は知らない。知ろうとしてはいけない、というのが私の決まりだ。けれど蓋を閉めて立ち上がるとき、視界の隅に表札が入る。見ないようにしているのに、入る。先々月まで二つ並んでいた名字が、一つになっていた。古いほうの札の、釘の跡だけが残っていた。私は数字から物語を作らない。だから、何も思わなかったことにして、次の家へ歩いた。
半分になった家は、たいていそのまま続く。次の検針でも十一、その次も十、十二と、一人分のあたりに落ち着いていく。私はそれを、引き算の結果として控えに書く。けれど、ときどき半分よりさらに減っていく家がある。八、五、二、と検針のたびに数字が薄くなり、やがて前回値がほとんど動かなくなる。パイロットの羽根も、思い出したようにしか回らない。そういう家には、いつか青いキャップが来る。
閉栓は、私の仕事ではない。別の部署の作業員が来て、メーターの一次側に青いビニルのキャップをはめ、水を止める。私はその家の最後の検針票を、ポストに入れるだけだ。「ご使用中止に伴う最終のお知らせ」。誰が読むのかも分からない票を、誰もいない家のポストにそっと落とす。あの家の犬が、いつのまにかいなくなっていた。吠えられないと、その家の前は妙に静かだった。
逆に、倍になる家もある。八 m³ だったのが、ある月から十九 m³ になる。倍以上だ。そういう家の前を通ると、自転車が一台増えていたり、ベランダに見覚えのない色の洗濯物が揺れていたりする。誰かが越してきて、二人になった。半分の家と倍の家が、同じ順路の上に交互に現れる。町は、足し算と引き算でできている。
去年、順路表が新しく刷り直された。閉栓になった家がいくつか黒く塗りつぶされ、新しい番地が末尾に書き足されていた。私はその紙を眺めながら、ふと思った。私は誰よりも先に、この町から人が減ったことや増えたことを知っているのではないか。住民票より早く、回覧板より早く、検針票の前回比が、それを私に教えてくれる。数字は、町の人口動態の先触れなのだ。
もちろん、私はそれを誰にも言わない。言う立場にない。半分の理由も、倍の事情も、私が確かめてはいけないことになっている。それでいい。私は数字から物語を作らない人間でいたいのだと思う。たとえ、作らないと決めることそのものが、もう半分は物語なのだとしても。
今日もどこかの家の蓋を開け、私は黒い五桁を打ち込む。前回比の欄に、増減が静かに刷り出される。半分になった家。倍になった家。やがてゼロになる家。私は何も知らないまま、ただその数字を読み、蓋を閉じて、次の足元へ歩いていく。それでいいのだと、自分に言い聞かせながら。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。