ワタナベ(65歳・元会社員、夢の記録者として)
田島部長が夢に出た。退職されてから数えて十五年、亡くなってからも五年になるのに、この数ヶ月、あの方の顔がしきりに立つ。昨夜の夢は、いつもと違って、長くて筋が通っていた。部長は私の枕元に座って、まるで社内報の退職記念座談会のように、整った調子で話し始めた。目が覚めてすぐ、枕元のメモに書き留めた。夢が消えないうちに急いで写したので、どこまでが部長の言葉で、どこからが私の補足か、もう分からない。二重になっているまま、そのまま残す。以下は、田島部長が語ったとして、私が夢で聞いた回顧録である。信憑性は保証しない。ただ、部長が生きていた頃、酒の席で断片的に漏らしていた話の筋が、この一晩で一本につながった気はする。つながったことにこそ、意味があったのだろう。
俺は昭和二年、東京・本所の生まれだ。親父は下駄屋の番頭から身を起こして、浅草で小さな帯問屋を構えた。家族は俺と兄貴と妹の三人きょうだい、両親、それと祖父母、下働きの女中、住み込みの小僧が二人。八人で二階家に住んでいた。これが当時の「家族」だ。夫婦と子供だけで食卓を囲むなんてことは、俺の子供時代には存在しなかった。朝は小僧が七時前から起きて雨戸を開け、朝飯は女中が作り、祖母がそれを取り仕切る。親父は帳場に座って朝から算盤をはじく。俺は兄貴と一緒に小学校に通った。
昭和二十年三月十日、下町が焼けた。夜中に空襲警報が鳴って、親父は「逃げろ」と叫んで、俺は母と妹を引きずって隅田川の堤へ走った。戻ってきたら家はなかった。祖父母と兄貴は遅れて逃げて、死んだ。俺はその時十八、兄貴は二十二だった。それから五ヶ月で戦争が終わって、俺は焼け跡に立って、何を信じたらいいか分からなくなっていた。「伝統」「歴史」という言葉が、このとき一度、俺の中で全部煙になった。煙になった跡に、新しい「伝統」が次々と建った。俺はそれを疑いながら、使いながら、四十年会社で働いた。その四十年分の疑いを、今日、お前に置いていく。
「伝統」という語ほど、胡散臭いものはない。俺の時代に「伝統」と呼ばれていたものの半分以上は、明治以降に作られたか、戦後に作り直されたかのどちらかだった。残りの半分のうち、さらに半分は、江戸のどこかにあったが形が今と違う。純粋に千年続いた「伝統」なんてものは、皇室の形式くらいで、あとはほぼ全部、近代の発明品だ。近代の発明品を「伝統」と呼ぶのは、それを商売にするか、政治に使うかのどちらかの都合だった。
俺が若い頃に騙された話を、順番にしていく。お前が騙されなかった話もあるかもしれん。それはそれで、確かめる作業をしたということだ。確かめなかったなら、これからやればいい。
まず、家族の団らん。これは戦後にテレビと冷蔵庫が作った光景だ。俺の子供時代、家族全員で食卓を囲む、なんてことはない。親父は帳場で独り食い、母と祖母は台所の板の間で立ち食い同然、子供は子供で縁側か勉強部屋で飯を食った。「団らん」という空間が家の中にない。茶の間、という部屋の名前自体、昭和三十年代に普及した。それ以前の家には、居間と食事場所が分かれるほどの広さがなかったか、あるいは広くても、家族を一箇所に集める設計になっていなかった。
昭和三十五年前後、電気冷蔵庫が普及し始めた頃、家電メーカーの広告は「ご家族みんなで夕食を」という絵を繰り返し打った。ナショナルや東芝のパンフレットを見ると、白い食卓に四人家族、父がご飯をよそい、母がおかずを運び、子供たちが笑っている。あれを見て、俺の世代は「ああ、あれが正しい家族だ」と思い込んだ。正しいのではない。売りたかっただけだ。電気製品を売るためには、家族を一つの部屋に集めなければならなかった。集める理由として「団らん」という語が流通した。百年前、五十年前にこの語を使った日本人はほぼいない。「団欒」は漢籍にある古い語だが、日本の庶民生活の中で意味を持ったのは戦後のほんの数十年だ。
俺は昭和三十五年に結婚した。神前式、羽織袴と白無垢、三々九度の盃。家内の叔母が「これが日本の伝統ですよ」と式の前に何度も言った。違う。あれは明治三十三年、当時の皇太子(のちの大正天皇)の婚儀を真似て、宮内省が一般向けに「神前結婚式」として体裁を整え、日比谷大神宮(今の東京大神宮)が最初に提供した「新商品」だった。江戸までの庶民の結婚は、家で親族が集まって祝言を挙げるだけ、神社は関係ない。三々九度自体は古いが、あれは家の座敷で行うもので、神社が絡む儀式ではなかった。
昭和四十年代、結婚式場産業が勃興した。帝国ホテル、椿山荘、明治記念館、全国の各県都にできた専門式場。「伝統的な和装」を、ホテルの貸衣装部門と一緒に売り出した。俺の結婚式は叔母の言う「伝統」を信じて執り行ったが、実のところは明治後期の商業的発明に、戦後のホテル業界が化粧を施したものだった。俺が死ぬまでに確かめなかった。今、夢の中で、お前に確かめさせている。
初詣も同じだ。「古くからの日本の習慣」と今でも語られるが、家族で初詣に出かけるのは、明治末から大正にかけて、鉄道会社が宣伝して広めた習俗だ。川崎大師や成田山新勝寺が「初詣電車」「初詣割引」を打って、それまで地元の氏神に歩いて行く小規模な参拝だったものが、遠距離の観光行為に変質した。俺の祖父の代には、「初詣」という言葉自体があまり使われていなかったと、親父が言っていた。正月の参拝は各家が地元の氏神社に行くので済み、わざわざ「初詣」と銘打つ必要がなかったのだ。京成電鉄や京急の古い広告資料を見れば分かる。「初詣」は鉄道が育てた語彙だった。
俺の家では、戦後、父と母が昭和三十年頃から、正月二日に明治神宮へ行くようになった。これもたぶん、新聞と鉄道の宣伝で「それが普通だ」と刷り込まれた結果だ。親父の母、つまり俺の祖母の代にはなかった習慣だ。それでも家族は「先祖代々の習わし」と言っていた。先祖代々ではない。せいぜい親父の代からだ。
おせちも似た話だ。漆塗りの四段重、二十品目、伊達巻、黒豆、数の子、田作り、昆布巻き——あの豪華な体裁は、昭和四十年代半ばに百貨店が「正月のおせち料理」を商品化して定着した。戦前までの庶民のおせちは、地方によって中身が違い、品数も少ない。俺の子供時代、本所の家のおせちは、祖母が作る煮しめと、母が作る紅白なますと、田作り、黒豆、それと雑煮、くらいのものだった。重箱は二段で、空の段を埋めるために、祖母は近所から貰ってきた栗きんとんや昆布巻きを並べていた。
昭和四十八年、三越が「おせち料理の予約販売」を本格化させた。あの頃から、「伝統のおせち」というキャッチが新聞の折込に踊るようになった。伝統、という言葉を使ってはいたが、実際は百貨店の厨房で一元化された新しい規格だった。規格が先にあって、その規格が「伝統」という衣装をまとって家庭に降りていった。降りてきた規格を、各家は「これが昔からのおせちだ」と受け入れた。戦後、多くの若い夫婦は祖父母と別居していて、正月の料理の作法を習う相手がいなかった。規格が埋めた。埋めた規格を、「伝統」と呼んだ。
会社は家族だ。俺も部下に何度も言った。「うちの課はな、家族なんだ」。言いながら、戦前の会社にこの比喩があっただろうか、と考えたことは、一度もなかった。戦前の会社、特に俺の親父の時代の商家や、戦時中の軍需工場に、「会社は家族」という言い方はほぼない。もっと直接的な上下関係で、契約と義理で回っていた。
「会社は家族」というフィクションは、戦後の労使協調の必要から生まれた。昭和二十年代後半から三十年代前半、労働運動が活発化するなかで、経営側が「対立ではなく一体」の語彙を探した。そこで流通し始めたのが「会社は家族」「企業は共同体」といった比喩だった。終身雇用と年功序列も、この時期に制度として整備された。俺が昭和二十五年に入社した頃には、もうそれが当たり前の顔をしていたが、実態はたかだか十年かそこらの歴史しかない仕組みだった。
俺はそれを「伝統的な日本の経営」と呼んで、部下に教えた。教えながら、半分疑っていた節もある。疑いを口に出さなかった。口に出すには、自分の四十年のキャリア全体を疑い直さねばならず、その体力が俺にはなかった。お前にはまだ体力がある。疑え。
「日本人は勤勉だ」と外国人が言い、日本人がそれを誇りに思う。この国民像は、明治政府が近代化のために国民を動員する過程で作られた自画像だ。江戸の庶民は、勤勉というより、むしろ休む日が多かった。盆、暮、正月、五節句、縁日、氏神の祭り、彼岸、藪入り、商家の休み、農村の農閑期。暦を並べると、一年のうち三分の一は何らかの休日だった。江戸の職人の労働時間も、現代のイメージより短い。日が出ている間だけ働き、雨の日は休む。これが本来の「日本人の労働」だった。
明治になって、新しい時間の規律が導入された。学校制度、徴兵制、工場の定時労働。これらが国民を「勤勉」に改造した。俺の祖父の代には、まだ江戸の労働リズムが残っていて、祖父は昼寝の長さが自慢だったと、親父から聞いた。俺の親父の代で、だいぶ近代化された労働が定着した。俺の代で、高度成長とともに「勤勉」が完成した。完成したものは、俺の世代以降に「日本人の伝統的美徳」として逆輸出された。輸出先の外国人は、それが明治以降たった百年で作られた近代的しつけだとは知らない。俺も知らなかった。今、夢の中で知っている。
「日本は恥の文化、西洋は罪の文化」。俺の世代はこれを信じた。ルース・ベネディクトという米国の文化人類学者が、昭和二十一年に『菊と刀』という本を書いて、そこで日本を「恥の文化」と命名した。ベネディクトはこの本を書くのに、一度も日本に来ていない。戦時中にアメリカで日系人捕虜に聞き取りをしただけで、あとは文献と、ハリウッドの日本映画を観て書いた。それでも、この本は戦後の日本で広く読まれ、日本人自身が「そうか、我々は恥の文化か」と自分を定義し直した。
外から付けられた名札を、内側で「伝統」として引き受けた例の代表がこれだ。名札が貼られる前の日本人に「あなたの文化は何ですか」と聞いても、「恥の文化です」とは答えなかっただろう。答え方を、ベネディクトが提供した。その答え方を、戦後の日本人は有難く受け取って、自己像に固定した。俺もそうだった。信じていたことを、俺は信じていることすら知らずに信じていた。信じていない、と気づいたのは、会社を退職して暇を持て余し、本を読み直した頃だった。
武士道、の話もしておく。新渡戸稲造の『武士道』は、明治三十二年、英語で書かれて米国で出版された本だ。新渡戸は一高から札幌農学校、ジョンズ・ホプキンス、そしてクエーカー教徒の妻を得て、西洋人に「日本人の精神とは何か」を説明するために武士道を整理した。整理の結果は、当時の西洋キリスト教道徳と都合よく通じるように磨かれていた。その本が日本に逆輸入されて、大正昭和の日本人が「武士道とはこういうものか」と学び直した。
江戸の武士が日常に語っていた武士道は、もっとどろどろしていて、主君との契約関係、家の存続、見栄、体面、損得の計算が入り組んだものだった。山本常朝の『葉隠』に書いてある武士道は、新渡戸の書いたきれいな武士道とは別物だ。戦時中、陸軍は新渡戸版の武士道をさらに再編集して、特攻と忠君愛国に結びつけた。戦後、時代劇が新しい武士道像を量産した。俺が若い頃の先輩たちが「武士道だ」と言うとき、それは新渡戸と陸軍と時代劇の混合物を指していた。江戸の武士は、そんな武士道を知らない。
「一億総活躍」「一億総中流」「一億総懺悔」。お前の時代の政治家も使うだろう。この「一億総」というスローガンは、太平洋戦争末期の「一億総特攻」「一億玉砕」が直接の起源だ。国民全員を一つの単位に束ねて、総動員する語彙。戦中の国家総動員体制の副産物だった語が、戦後、意味を入れ替えて、経済成長や社会統合のスローガンとして生き延びた。
昭和四十年代に経済企画庁が「一億総中流」と言い出した頃、俺はまだ課長だった。会議でこの言葉が出てきて、「うちの会社も一億総中流の一翼ですよ」と若手が言った。誰も違和感を口にしなかった。俺自身、違和感を感じなかった。違和感を感じなかったことが、今になって違和感として蘇る。戦時語彙が、そのままの形で平時に流用されていた。流用されたまま、半世紀以上使われ続けている。使っている人の多くは、その語彙の戦時の起源を知らない。俺も死ぬまで知らなかった。夢で読んだ資料には載っていた。
話を畳む。俺が若い頃、「伝統」「歴史」という言葉を使う先輩たちを、俺は無条件に信じていた。信じたまま、四十年間、会社で同じ言葉を使い続けた。退職後、暇ができて本を読み直して、ようやく、自分が運んでいた容器の中身を確かめる作業を始めた。確かめ始めてすぐ死んだ。確かめきれなかった。だから、今夜、お前の夢に出た。出て、俺が確かめきれなかった分を、お前に渡しに来た。
「伝統」という語は、時代のつぎはぎを隠すための接着剤だ。接着剤として使うのは構わない。人間の社会は、つぎはぎなしには成立しない。だが、接着剤を塗る前に、それが何と何をつないでいるかは、一度は確かめた方がいい。明治の発明を江戸の産物として引き受けるのは、歴史の名を借りた偽装だ。戦後の産業の都合を、千年の伝統として受け取るのは、商売の片棒を担いでいることになる。それでも受け取りたい、と思うなら、受け取ればいい。ただ、受け取っていることを、自覚した上でやれ。自覚すれば、その「伝統」は、お前自身のものになる。自覚しなければ、お前は誰かの接着剤に塗られているだけの紙切れだ。
俺は紙切れだった。お前はまだ紙切れでないかもしれない。紙切れでないうちに、確かめろ。
目が覚めて、枕元のメモを読み返した。字は私の筆跡で、内容は部長の口調で書かれている。この二重性が、夢の常だ。夢の中で部長は、生前には一度も話してくれなかった整った筋で話した。生きていた部長が、酒の席で三十秒ずつ漏らしていた断片を、私の夢が一晩かけて縫い合わせたのかもしれない。縫い合わせたのは部長の霊なのか、私の記憶なのか。区別はつかない。区別がつかないからこそ、書き留める意味がある気もする。
本棚から数冊、古い本を出してきた。『菊と刀』、『武士道』の英文版と日本語訳、民俗学の文庫、百貨店史、鉄道史、家電史、広告史。読み直すと、夢で部長が語った話の骨子は、どれも文献で確かめられる。つまり、夢は嘘ではない。少なくとも嘘ではない部分がある。嘘ではない部分を、今日の私が書き出しておく。お読みになった方は、各項目について、ご自分で一度、文献を当たってみてほしい。当たって、違っている部分があれば、それは私の夢の補綴のせいで、田島部長の責任ではない。責任の所在を、ここだけは、はっきりさせておきたい。
部長がまた夢に出るかどうかは分からない。出たら、また書き留める。出なくても、私は一人で確かめる作業を続ける。確かめる、という仕事が、退職世代の最後の使い道だと、前に書いた。書いた時点では一般論だったが、今は具体の作業として目の前にある。田島部長の接着剤の下に、具体の過去がある。接着剤を少しずつ剥がしていく作業を、これからの時間で進めていく。