タカギフミオ(53歳・時計店主28年)
窓の外には秋の柔らかな光が差していて、店の中には油と金属の匂いが静かに満ちていた。朝いちばんに、私は歩度測定器のスイッチを入れる。マイクが時計の音を拾い、画面に一日の進み遅れが数字で出る。プラス八秒、マイナス三秒。正確さを数字にできるのが、この商売のいいところだと思う。私は二十八年、その数字を売ってきたのだと思う。
ところが、客がカウンターで言うことは、必ずしも正確さではない。「これ、五分進めておいてください」と頼む人がいる。理由を訊くと、たいていは遅刻が怖いのだと言う。自分の時計を信じきれないから、わざと進ませておいて、その分だけ早く家を出る。私は竜頭を引き、針を回して、きっちり五分進めて返す。客はそれで安心して帰っていく。正しい時刻を知りたいわけではないのだ。
五分進んだ時計で暮らすというのは、不思議な生活だと思う。本人は、その五分が嘘だと知っている。知っているのに、だまされる。だまされたふりをして、早く動く。117に電話して時報を聞けば、本当の時刻はすぐにわかるのに、わざわざ確かめない。確かめてしまったら、五分の嘘が効かなくなるからだ。人は、自分でついた嘘に守られて生きている。
機械式時計の愛好家は、また別のことを言う。日差プラス八秒。一日に八秒ずつ進む時計を、私が「調整できますよ」と言うと、「いや、これはこの子の個性だから」と断る人がいる。誤差を個性と呼ぶのだ。テンプの調速は私の仕事のはずなのに、その仕事を断られる。狂いを直さないでくれと言われる。職人としては複雑な気持ちだが、その気持ちもわからなくはないのだった。
逆に、電波時計を「冷たい」と言う人もいる。標準電波を受信して、受信ランプがついて、秒の単位まで合う。狂わない。狂わないのに、好かれない。「正確すぎて、なんだか味気ない」と、ある客は言った。正確さを売る店で、正確さが嫌われる。私はカウンターの内側で、その言葉を長いあいだ考えていた。
クオーツと機械式では、精度がまるで違う。クオーツは月差で語る世界、機械式は日差で語る世界だ。数字だけ見れば、勝負にならない。それでも機械式を選ぶ人がいるのは、たぶん、狂うものに惹かれるからだろう。完璧なものより、少し狂ったもの。少し遅れるもの。人はそういうものに、自分を重ねるのかもしれない。
二十八年で一人だけ、変わった客がいた。針を合わせて返そうとしたら、「少し遅れるくらいでいいよ」と言ったのだ。進めてくれ、ではなく、遅れていていい、と。私は理由を訊かなかった。訊かないことを、私はこの商売で覚えた。その人がなぜ遅れる時計を望んだのか、いまもわからない。ただ、その一言だけは、妙に長く残っている。
正確とは何だろう、とカウンターの内側で思うことがある。歩度測定器は、プラスマイナス何秒と容赦なく数字を出す。だが、その数字を望まない人たちが、毎日この店に来る。五分進めてくれと言う人。狂いを個性と呼ぶ人。遅れていていいと言った、あの一人。時間との付き合い方は、人それぞれなのだ。私は今日も、その人それぞれの時間を、竜頭を回して合わせている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。