タカナシイツキ(38歳・橋梁塗装工18年)
冬の朝、缶を開ける前に温度計を読む。五度。日の差さない桁の北側に当てた針が、五度を切っている。今日は塗れない。多くの塗料は、気温が五度を下回ると硬化が進まない。湿度が八十五を超えても塗れない。塗りたい手を止めて、温度計を桁の影から日向に移し替える。
気温だけではない。鉄の温度と、空気の露点の差を測る。鉄が露点を下回れば、目に見えない水の膜が鋼面に乗る。冬の橋桁は、北側のフランジと、影になった継ぎ目と、ボルトの頭に、先に露が来る。陽が回って空気が暖まるほど、夜の冷えを抱えた鉄との差が開いて、その差の分だけ露が結ぶ。湿った鉄に塗れば、塗膜は食いつかない。差が消えるまで、缶は開けない。
そのかわり、落とす作業は冬でもできる。ケレンと下地調整は、塗膜の硬化を待たないからだ。錆を削り、地肌を白っぽく出しておく。塗りは、気温が上がる春に回す。落とすのは冬、塗るのは春。橋一本の一年を、私たちはそう二つに割って組む。
塗らない日は、足場と道具に手が回る。一年で緩んだ吊り足場の番線を、外向きに増し締めしていく。締めすぎれば針金が切れるから、手で張りを確かめながら回す。高圧洗浄機のノズルは、爪の腹で内側を撫でて摩耗を見る。引っかかりが出ていれば交換だ。春の現場は、この冬に締め直した番線の上に組まれる。
冬は、机に向かう季節でもある。現場が止まる時期に、講習がまとまって開かれる。足場の組立て、有機溶剤、玉掛け——夏には取りに行けないものを、冬に受ける。二十代のころ、雪の降る町の会議室で、暖房の効きすぎた部屋に丸一日座って、テキストの溶剤の蒸気圧の表を睨んでいた。眠かった。あの表が、いまの五度の判断の下にある。
三月の終わり、塗り始めの朝が来る。前の晩から翌朝の冷え込みを気にして、現場に着くと、まず桁の北側に温度計を当てる。五度をまたいで上がっていくのを待つ。鉄の温度が露点から離れ、影の露が引くのを待つ。針が六度を指して、ボルトの頭の濡れが乾いたところで、缶を開ける。何時から塗るかは、温度計が決める。
最初の一刷毛を、去年と同じ桁の同じ面に置く。ノリは、去年の春と変わらない。冬のあいだ削って白く出しておいた地肌に、塗料が食い込んでいく。ケレンは冬に済ませてある。あとは、気温が上がった分だけ、塗っていくだけだ。