ビンと、パック
重い容器を選ぶ家のこと

タカヤナギメイ(29歳・牛乳配達7年)

夜が明ける前の町を、一軒ずつ回る仕事をしている。販売店に着くのは三時半。保冷箱に氷を敷き、ルート表の順に瓶とパックを積んでいく。私の担当する区域では、瓶の家とパックの家が、だいたい三対七くらいだろうか。瓶は少ない。少ないけれど、瓶の家のことを、私はよく覚えている。

瓶とパックは、配達側からすればまるで違うものだ。パックは入れて終わり。空いたパックは家庭ごみに出されるから、回収もない。瓶はそうはいかない。重い。ケースの中で鳴る。割れる。そして必ず、前の日の空き瓶を回収して、洗って、また使う。一本の瓶は、私の手を何百回も往復する。パックは一度きり、瓶は永遠に行ったり来たり。容器というものは、それ自体が静かに語りかけてくるのかもしれない。

瓶を選ぶ家には、理由がある。集金のついでに聞いたことがある。「瓶の方がおいしい気がするのよ」と、あるお宅の奥さんは言った。べつのお宅では「子どもには瓶の牛乳を飲ませたくて」。また別の家のおじいさんは、理由を聞いても「いやあ、もう長いこと瓶だからねえ」と笑うだけだった。返すのが習慣になっている、ということなのだと思う。理由はそれぞれ違うけれど、瓶の家には、選んで続けている、という芯のようなものが共通してある気がした。

面白いのは、瓶の家は、長く続く客が多いということだ。パックの家は、解約も早い。引っ越し、生活の変化、ちょっとした節約——理由は色々で、ある朝ふっと「来月から止めます」のメモが入っている。けれど瓶の家は、なかなか止めない。重い容器をわざわざ選んで、洗って返す手間を引き受けている人たちは、その手間ごと、暮らしに組み込んでしまっているのだろう。手間は、ときに人を繋ぎとめる。

瓶のフタの話をしたい。昔は厚紙の丸いフタで、専用の針みたいな道具でくいっと開けるものだった。いまは多くがアルミの、指で引っぱって剥がすタイプだ。あるお宅で、小さな男の子が、瓶のフタの開け方を知らなかったという話を、お母さんから聞いた。パックしか見たことがなかったその子は、瓶を渡されて、しばらく途方に暮れていたらしい。容器の開け方が、世代によって受け継がれたり、途切れたりする。私はその話を聞いて、なんだか少し切ない気持ちになった。

瓶は割れる。配達中に自転車が傾いて、ケースごと倒したことが、一年目に一度だけある。アスファルトに広がった白と、ガラスの破片。あの朝の、牛乳とガラスの匂いを、私はまだ覚えている。割れた瓶は、軍手をはめて拾い、新聞紙にくるんで持ち帰る。回収かごには、洗って返ってきた瓶と、割れた瓶を分けて入れる。無事に往復を終えた瓶と、途中で終わった瓶。同じガラスなのに、行き先が違う。

夏は、瓶とパックの差がいちばん出る。受け箱の中は、朝でも蒸す。パックは紙だから、ぬるくなっても見た目は変わらない。瓶はガラスだから、汗をかく。表面にびっしりと水滴がついて、受け箱の底が濡れている。私は、瓶の家のほうに、保冷剤を一つ多めに入れる。誰に言われたわけでもない。ただ、重い瓶をわざわざ選んでくれた家には、こちらも一手間返したくなる。瓶という容器は、配達と家の往復そのものなのだと思う。

七年やってきて、思うことがある。瓶を選ぶというのは、便利さに逆らうことだ。軽いパックがあるのに、重くて割れる瓶を、洗って返す。その不便を引き受ける家が、結局いちばん長く続く。空き瓶の回収が「返信」になっているという、あの最初の朝の気づきの、ずっと先に、私はいまいる。瓶は、選んで続けるという意志なのだ。ガラスの重さは、その意志の重さなのだ。今日も三時半に氷を敷いて、私は瓶の家の往復を、一本ずつ始める。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。