テヅカアキ(46歳・浄化槽の保守点検24年)
法定検査の朝は、点検の朝より早く目が覚める。私が点検のたびに見てきた一年を、その日、県の指定機関の検査員が別の目で確かめに来る。点検する者と、それを検査する者。立場が分かれている日だ。頭では分かっている。それでも蓋に手をかけるとき、いつもより一拍、開けるのが遅れる。自分の升目を、横から読まれる日だからだ。
検査員は、まず蓋を開けて処理水を採る。透視度計を沈め、出口の塩素の残量を試薬で出し、外観と匂いを見る。その場で読めるのは、そこまでだ。BODは——微生物がどれだけ汚れを食べたかの数字は——採水のボトルに収まって、試験所へ持ち帰られる。判定書が郵便で来るのは、五日ほど先になる。検査員が小瓶に家の番号を書き入れ、保冷箱へしまうのを、私は脇から見ている。その場で裸になる数字より、後で郵便で来る数字のほうが、待つあいだ重い。
ある家で、検査員が処理水を覗いて、ばっ気が弱い、と言った。空気の送りが足りていない。私はそのブロワが古いのを知っていた。設備が古いものですから——と、口が動きかけた。呑んだ。「ブロワの吐出が落ちています。交換の見積りを、家の方にお出しします」。検査員は頷いて、ボードに書き込んだ。動きかけた最初の一言と、言い直した二言目の違いを、向こうも分かった顔だった。
不適正の判定が来る家もある。たいていは私の手落ちではなく、槽そのものの寿命だ。そういう家には、判定書が来てから説明に行く。買い替えの話は重い。床下の見えない機械のために、まとまった金を出してくれと言う。何度やっても、玄関先で一度、息を整えてから切り出す。いま手を入れればまだ延ばせること、もう限界が近いこと、両方を並べて、決めるのは家の方に渡す。延ばせます、とだけ言って帰った夜は、寝つきが悪い。
同じ地域を回る検査員とは、年に何度も顔を合わせる。お茶も出る。世間話もする。だが、蓋の前に立つと、向こうの顔つきがきちんと変わる。さっきまで娘の進学の話をしていた人が、処理水を覗く目に戻る。その切り替えの早さを、私は信じている。馴れ合えば、数字を甘く見てもらえるかもしれない。だがそれは、この一年の升目を無駄にすることだ。茶飲み話と検査のあいだに、向こうが引く一本の線。その線があるから、来年もまた茶が飲める。
検査の終わりに、検査員は点検記録の提出を求める。点検のたびに私がつけてきた升目だ。泡の様子、透視度、汚泥の溜まり、消毒剤の補充。記録が続いていれば、向こうの鉛筆は速い。飛んでいれば、そこで止まって、なぜですかと訊かれる。升目は、書いた日の私を覚えている。雨の日も、急ぎの日も、面倒だと思った日も、同じ手で同じ欄を埋めてきたかどうかが、その日、別の人間の鉛筆の速さになって返ってくる。
その日、最後の家を終えて、軽トラックに戻った。その場の指摘が二件。不適正の見込みが一件。いい一日ではない。判定書のBODは、まだ試験所の保冷箱の中だ。エンジンをかける前に、自販機の缶コーヒーのプルタブを起こす。生ぬるくなりかけた甘さが、喉を通る。緊張が、半分だけほどける。あとの半分は、五日後に郵便受けを開けるまで、ほどけない。缶を握ったまま、私はしばらく、まだ来ていない数字のほうを見ている。