法定検査の、日
年に一度、自分の仕事が検査される日

テヅカアキ(46歳・浄化槽の保守点検24年)

浄化槽には、年に一度、法定検査というものがある。私が毎月する保守点検とは別に、県の指定した第三者機関が来て、槽の状態を改めて調べる検査だ。点検する者と、その点検を検査する者。立場が分かれているのには理由があるのだと思う。検査は、私たち点検屋を疑うためにあるのではない。検査は敵ではない。家の地中の処理場が、ちゃんと働いているかを、別の目で確かめてくれる味方なのだと思う。

検査員が来る日は、朝から少し落ち着かない。私の管理してきた一年が、その日に数字になって出るからだ。検査員は槽の蓋を開け、処理水を採って、BODを測る。生物化学的酸素要求量——微生物がどれだけ汚れを食べたかの目安だ。それから透視度計を沈め、出口の塩素の残りを調べる。私が毎月の点検表に書いてきた数字が、その場で裸になる。普段は私だけが見ている数字を、別の人間が確かめるというのは、妙な気持ちのものだ。

ある家で、検査員が処理水を見て、ばっ気が弱い、と言った。空気の送りが足りず、微生物が十分に働いていない、という指摘だ。私はその家のブロワが古く、近いうちに替え時だと分かっていた。だからつい、設備が古いものですから、と口が動きかけた。だが、それは言い訳だ。言い訳と説明は、似ているが違う。言い訳は自分を守り、説明は相手に事実を渡す。私は言い直して、ブロワの吐出が落ちています、交換の見積りを家の方にお出しします、と言った。検査員は頷いて、記録に書き込んだ。

不適正、と判定が出る家もある。たいていは設備の老朽が原因だ。私の点検の手落ちではなく、槽そのものが寿命に近い。そういう家には、検査のあとで住人に説明をしに行く。買い替えの話は、重い。浄化槽の入れ替えは、家の人にとって思いがけない出費になる。床下の見えない機械のために、まとまったお金を出してくださいと言うのは、何度やっても慣れない。私はできるだけ正直に、いま手を入れればまだ延ばせること、限界が来ていることの両方を並べて、あとは家の方に決めてもらう。

検査員とは、長く回っていると顔なじみになる。同じ地域を担当する人は、年に何度も顔を合わせる。世間話もする。だが、慣れ合ってはいけない、と自分に言い聞かせている。顔なじみだからと数字を甘く見てもらっては、検査の意味がなくなる。向こうも、それは分かっている。茶飲み話のあとで蓋を開けると、検査員の顔つきはきちんと変わる。その切り替えの早さが、私には信頼できる。馴れ合わない距離を保つことが、かえって長く付き合える秘訣なのかもしれない。

検査の日にいちばん試されるのは、実は書類だ。検査員は、私が毎月つけてきた点検記録の提出を求める。日々の記録が、そのまま検査の答案になる。泡の様子、透視度、汚泥の溜まり、消毒剤の補充——その家の一年が、点検表の升目に並んでいる。記録がきちんと続いていれば、検査員は安心する。記録が飛んでいたり、数字が雑だったりすれば、その点検屋の仕事ぶりが透けて見える。普段の一升一升の記入が、こういう日に効いてくる。

その日、最後の家の検査を終えて、私は軽トラックに戻った。指摘は二件、不適正が一件。決していい成績ではない。だが、隠さずに出して、説明すべきは説明できた一日だったと思う。エンジンをかける前に、自販機で買った缶コーヒーのプルタブを起こす。生ぬるくなりかけた甘い液体が、喉を通っていく。検査される側の緊張が、そのひと息でようやくほどける。

缶を持つ手を見ながら、私は思う。検査は、私を裁くためにあるのではなかった。日々の記録が答案なのだ。毎月の升目を正直に埋めてきたことが、この日の私を支えてくれた。記録は嘘をつかない。そして、記録を正直に続けることそのものが、二十四年やってきたこの仕事の、いちばんの誇りなのだと、缶コーヒーを飲み干しながら、私はあらためて思うのだった。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。