テヅカアキ(46歳・浄化槽の保守点検24年)
普段の点検は私ひとりだが、年に一度の清掃は二人になる。バキューム車が来て、清掃業者と組んで槽を空にする日だ。段取りは前の点検から始まっている。私は普段、ひしゃくで底を探って汚泥の溜まりを測っておく。容量の三割を超えたら、引き抜きの目安だ。その数字を清掃業者に渡し、向こうが車を回す。当日は私が立ち会って、どの部屋からどれだけ抜くかを指示する。抜きすぎれば微生物の種まで持っていかれ、残せば溜まりが戻る。その加減を決めるのが、立ち会う者の仕事だ。
バキューム車は道に停めるしかない。蓋は庭の奥にあるから、太い吸引ホースを何メートルも這わせて運ぶ。佐々木さんの家では、玄関までの飛び石の脇に、奥さんが手入れしている小さな菊の鉢が並んでいる。私はその列を避けて、ホースを車庫の縁石に沿わせ、いちばん土の固いところを選んで寝かせる。満タンになった帰りのホースは、行きより重い。曲げ角でホースが折れると吸いが弱るから、角は大きくふくらませて取る。芝を横切ると、重い管の通った跡が一本、筋になって凹む。そこだけは、どうしても残る。
引き抜きが始まると、ホースの中を汚泥が流れる低い音がする。抜けてくる中身に、その家の一年が出る。子の多い家の汚泥は、ぎっしり詰まって重く、ホースが詰まりかけて音が変わる。留守がちの一人暮らしの家は、汚泥が少なく、その代わり水が黒く腐って、硫黄の匂いを溜め込んでいる。微生物に食わせる汚れが来なければ、槽は痩せる。多すぎても痩せすぎても、槽は困る。流れる音の太さで、私はその家のこの一年を聞いている。
抜き終えると、槽はがらんとして、コンクリートの底が見える。ここからが仕上げだ。空のまま再開すれば、生き残った微生物が薄まりすぎる。だから張り水をする。きれいな水を、規定の線まで張り直してやる。水が満ちると、底に残ったわずかな汚泥がゆっくり広がり、生き残りが、また増える支度を始める。空にして、水を張る。これは捨てる作業ではない。飼い直しの、最初の一杯だ。
清掃の日は、家の人とよく話になる。佐々木さんの奥さんが、菊の鉢を手にしたまま「こんなお仕事、大変ねえ」と言う。昔はこの「大変ね」が苦手だった。卑下して笑うのも、胸を張るのも、どちらも違う気がした。今はこう返す。「ええ、でも床下の生き物の世話ですから」。奥さんは、生き物、というところで少し驚いて、それから笑う。鉢の菊を一本、折らずに済んだ。それだけで、その日の私はいい仕事をしたと思える。
バキューム車が去ると、庭は急に静かになる。エンジンとホースの音が消えた跡に、また鳥の声が戻ってくる。私は最後にもう一度、張り水をした槽の蓋を開ける。リセットされたばかりの槽は、まだ泡が立たない。微生物がもとの数に戻り、ばっ気槽にきめ細かい泡が均一に立つまで、数週間かかる。
その数週間、私は清掃した家にだけ、点検表にない回り道をする。ルートの帰りに少し遠回りして、蓋を開け、透視度計を沈める。澄みすぎていないか。泡は立ち始めたか。佐々木さんの家の槽に、先週ようやく細かい泡が均一に立った。芝の凹んだ筋も、雨が二度来て、もう分からなくなっていた。私は蓋を閉めて、何も言わずに車に戻る。床下では、また小さな生き物たちが食べ始めている。