活字の、重さ
入職一年目、文字は道具だと教わるまで

トコロアズミ(51歳・活字鋳造職人29年)

鉛の活字を鋳る仕事を二十九年続けている。母型に溶けた鉛合金を流し込み、固まったら一本取り出す。それを延々と繰り返す。デジタルのフォントは画面の中で軽やかに増えていくけれど、私の作る文字には、いつも重さがあった。手のひらに乗せれば、ずしりとくる。文字に魂が宿るというのは、本当のことかもしれないと、私はずっと思っている。

私が鋳造所に入ったのは一九九七年、二十二歳の春だった。すでに活版は斜陽の時代で、写植もとうに過ぎ、町の印刷屋は次々とオフセットに切り替えていた。なぜそんな時代に、と人には言われた。けれど、工場の戸を開けたときの、鉛とインクと機械油の混じった匂いに、私はなぜか胸を打たれてしまったのだと思う。古いものには、古いものにしかない静けさがあった。

親方は無口な人だった。入って間もない頃、私は自分の作っている活字を、どこか神聖なもののように感じていた。文字を生み出している、という気持ちがあった。それを見抜いたのだろう。ある日、親方は鋳ったばかりの活字を一本つまみ上げて、こう言った。「お前は文字を作ってるんじゃない。判子を作ってるんでもない。インクを紙に運ぶ道具を作ってるんだ」。文字は、印刷の部品にすぎない。その一言は、私の思い上がりを静かに崩した。

鉛合金は、鉛とアンチモンと錫の配合でできている。アンチモンを増やせば硬くなって摩耗に強い活字になるが、その分だけ融点が上がって鋳込みにくい。錫は湯まわりをよくする。配合は、硬さと鋳込みやすさのあいだの綱引きだ。親方はインゴットを坩堝に放り込みながら、温度計をほとんど見なかった。湯の表面の色と、立ちのぼり方で頃合いを計っていた。私が温度計に頼っているのを見ると、鼻で笑ったものだった。

母型の棚は、工場でいちばん大事な場所だった。母型は文字の型、つまり活字の母である。一つ欠けても、もう買い足せない時代だった。母型を作る会社が、次々と店をたたんでいたからだ。だから棚の母型は、私たちにとって財産そのものだった。書体ごと、号数ごとに整然と並んだ真鍮の母型を、親方は子どものように扱った。私もいつしか、棚の前を通るたびに、背筋が伸びるようになっていた。

鋳った活字は、一本ずつ検品する。見るのは欠けと、高さだ。とくに高さが大事で、活字の高さは日本では二十三・四五ミリと決まっている。これが一本でも狂うと、組んだときに印圧がそこだけ狂い、紙に当たりが強く出たり、逆にかすれたりする。ゲージに当てて、ほんのわずかな狂いを指で感じ取る。欠けた活字、高さの狂った活字は、容赦なく鋳潰し箱に放る。溶かして、またインゴットに戻す。文字はこうして、何度でも生まれ直す。

文選という仕事もある。棚に並んだ活字の中から、原稿どおりに一本ずつ拾っていく。私は鋳る側だったが、人手が足りないときは文選もやった。不思議なもので、何ヶ月かすると、指がよく使う文字の位置を覚えてしまう。「の」「は」「を」、句読点。考える前に手が伸びている。指先に、文字の地図ができるのだ。あの感覚は、たぶん体でしか覚えられないものだったと思う。

潰れかけていた工場に、思いがけず仕事が戻ってきたのは、二〇一〇年代に入ってからだった。活版印刷ブームというものが来た。名刺、結婚式の招待状。みんな「味」を求めていた。けれど、その「味」というのが曲者で、わざとかすれさせてくれ、わざと凹ませてくれ、と注文は複雑だった。きれいに刷るのが仕事だったはずなのに、今度はきれいに崩すことを求められる。時代は、ずいぶん勝手なものだと思う。

あれから二十九年。私はずっと、文字の重さを見つめてきた。画面の中の文字には重さがない。けれど、私の手は今日も、ずしりと重い一本を母型から取り出している。文字に重さがあった頃を知っている人間は、もうそう多くない。活字の重さが、私をいまの私にしてくれたのだと思う。鋳造機は今日も、低くうなりながら、鉛の湯を待っている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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