トネガワミズホ(43歳・下水道の管路調査員18年)
車が通るたびに、ガタン、と鳴るマンホールがある。前を歩く人は顔をしかめる。うるさい蓋だ、と。同じ音を、私は通報として聞く。蓋が、受け枠との噛み合いを失ったと言っている音だ。十八年、道路の下の管をカメラで覗いてきて、私は地上の蓋の音にも、別の意味を聞く耳になった。
蓋は、枠の上にただ載っているのではない。受け枠の斜めの面に、蓋の縁の斜めの面が噛み合って、ぴたりと落ち着くようにできている。新しいうちは、車が乗っても音がしない。けれど何万台も踏まれるうちに、その斜めの面が削れていく。削れた分だけ、蓋は枠の中で遊ぶ。車が乗った瞬間に跳ね、また落ちる。それがガタンだ。音が育っていくのは、蓋がその一枚分だけ、町から浮き上がっていく音でもある。
鳴ってから来る仕事と、鳴る前に見つける仕事がある。鳴ってからは、住民の通報で動く。本当は、鳴る前に見つけたい。だから巡回では、蓋ではなく、走ってくる車のタイヤを見る。蓋の上を踏んだ一瞬、蓋がわずかに沈んで、戻る。一ミリにも満たない。音が出るより前に、その沈みが目につく。そこを踏むたびに、削れていく。私はその蓋に、まだ誰も知らない番号を心の中でつける。
古い区画を歩くと、もう使われていない旧い市章の蓋が、まだ現役で道路にはまっている。市章は何度か作り直されていて、いちばん古い意匠は、いまの市役所の誰も使っていない。滑り止めの幾何学も、時代で替わる。亀甲の細かいもの、格子の粗いもの。蓋を見れば、この道がいつ舗装されたかが読める。比喩ではなく、足の下に旧い市章が一枚はまっていること、それ自体が、その通りの過ぎた年数だ。
絵柄の入ったデザインマンホールを、写真に撮りに来る人たちがいる。色付きでキャラクターが鋳込まれた蓋を、上から覗き込んでしゃがみ、カードを片手に一枚ずつ巡る。私も同じ蓋の前にしゃがむ。ただ、私は撮らずに、バールを差して裏返す。彼らが見ているのは絵柄の表で、私が読むのは刻印の裏だ。同じ一枚の、上と下を、それぞれが見ている。きれいだなと思う。そして、この縁も何年かで削れて鳴る、と年数のほうが先に浮かぶ。
蓋を開ける。バールの先を、蓋のふちの小さな穴に差し込む。腕では引かない。膝を曲げて腰を落とし、脚で立つ。先輩に最初に言われた。「腕で開けるな、足で開けろ」。腰を入れると、バールが食って、蓋がわずかに浮く。その隙間から、ふっ、と中の空気が抜ける。慣れない若い者は、腕で引いてここで腰をやる。十八年やった今でも、差し込む前に一度、腰の構えを確かめる。
浮かせても、すぐには入らない。ガス測定器を吊って降ろす。酸素が十八パーセントを切れば、人は入れない。硫化水素は十ppmで警報が鳴り、その先は、においを感じる前に意識を持っていかれる数字に入る。だから、においを信じない。数字が戻るのを待ってから、人とカメラを入れる。十八年やって、一度も省いたことはない。省いた者がどうなるかを、知っているからだ。
蓋が盗まれた、というニュースがたまに流れる。鉄の値が上がると、増える。一枚で数十キロある鋳鉄が、屑鉄として量り売りされる。ニュースを見て、私はまず、開いたままの夜の穴を思う。蓋のない穴は、暗いと見えない。あの重さは、誰かが落ちないための重さだったのだ。盗む者は、蓋を一キロいくらで見ている。私は、その下にある穴の深さで見ている。同じ一枚を、私たちはこんなに違うものとして見ている。蓋を裏返すと、刻印がある。製造の年、メーカー、規格の記号。私はそれを読む癖がついた。この蓋は、私が入った年より、二つ年上だ。