トネガワミズホ(43歳・下水道の管路調査員18年)
道路の下には、人の知らない管が走っている。私はその中をカメラで覗く仕事を十八年している。地上の暮らしを静かに支える、地下に流れる街の静脈。人々はその上を歩き、車を走らせ、足の下に何があるかを考えずに生きている。私はその、誰も見たことのない場所を見る人間である。
二〇〇八年、二十五歳のとき、下水道の維持管理会社に入った。最初に教わったのが管路調査だった。マンホールの蓋を開け、自走式のテレビカメラを管の中に降ろし、ケーブルを送り出しながら、画面に映る管の内壁を見ていく。ひび、たるみ、継ぎ目のずれ、侵入してくる水、そして木の根。それらを見つけて記録し、損傷ランクを判定する。それが調査員の仕事だと、そのときの私は思っていた。
カメラは思ったより気難しかった。底に砂や泥が溜まっていればそこで止まる。勾配のきつい区間では自分の重みで滑っていって、見たい場所を行き過ぎてしまう。コントローラーのレバーは指先の一ミリで速さが変わる。先輩は「お前はまだカメラを押してる。カメラに送らせろ」と言った。最初の半年は、止まる、滑る、その繰り返しだったと思う。
木の根には驚いた。地上に立っている街路樹の根が、土の中を伸び、管の継ぎ目のわずかな隙間から中へ入ってくる。入ってしまえば、管の中は水があって暗くて、根にとっては都合がいいのだろう。継ぎ目から、白い髭のような根がふさふさと垂れ下がって、流れに揺れていた。地上のあの一本の木が、こんな地面の下まで手を伸ばしているのかと思った。
その日、先輩に言われたことを、私はいまでも覚えている。私が画面のひびを指さして「ここ、ランク幾つですか」と訊いたとき、先輩はこう言った。「画面を見るな。管の年齢を見ろ。同じひびでも、若い管と古い管では意味が違う」。同じ一本のひびでも、敷設して五年の管に入ったひびと、五十年の管に走ったひびとでは、その先に起きることがまるで違う、というのだった。
侵入水というものがある。管の継ぎ目やひびから、地下水が中へしみ込んでくる。画面の中で、内壁の一点が濡れて光り、しずくがゆっくりと膨らんで、落ちる。たった一滴に見える。けれどそれが何百メートルも続く管の、いくつもの継ぎ目で起きていれば、雨でもないのに管の中の水は増えていく。大雨の前には、そういう弱った区間を重点的に調べる。町が水を流しきれずに溢れるかどうかは、この一滴の集まりが決めている。
報告書には、撮った写真を貼り、損傷ごとにランクを書き込んでいく。ひびの幅、たるみの深さ、根の量。基準の表と画面を見比べて、AだのBだのと判定する。最初のころ、私はその表を信じすぎていたのだと思う。表はひびの大きさしか見ていない。管が何年そこにいたか、その先に何があるか、表には書いていない。先輩が見ていたのは、表の外側だった。
マンホールの蓋を開けると、地上の音が降りてくる。子どもの声、自転車のブレーキ、誰かの笑い声。その人たちは、自分の足の下を私のカメラが進んでいることを知らない。知らないまま暮らしている。けれど、知らずに済んでいるのは、管がちゃんと働いているからなのだと、いつからか思うようになった。誰にも気づかれないことが、この仕事がうまくいっている証なのかもしれない。
あれから十八年。私は管の年齢を見る人間になった。画面のひとつのひびの前で、この管は何年ここにいるのだろう、と考える癖がついた。町の人は、足の下の管を一生知らずに過ごす。それでいい。知らずに済んでいることが、私の誇りなのだ。今日もマンホールの蓋を開け、私はカメラを、町の腹の中へ降ろしていく。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。