タケウチソウタ(高校生)
観光パンフを見ると、街はいつも機嫌がいい。駅から寺まで何分、名物は何、写真映えする坂はどこ、という順番で並べられていて、初めて来る人でも安心して歩けるように作られている。でも、その地図の端で急に説明が途切れる場所がある。川沿いの遊歩道から一本入っただけなのに、そこから先は白い余白になる。僕はあの余白のほうに、街の言い分が多く残っていると感じる。
うちの学校から駅へ向かう途中にも、パンフに載らない区画がある。古いアパート、修理工場、業務用の冷蔵庫を積んだトラック、昼すぎまで閉まっている小さな飲み屋、外国語の貼り紙が増えた食料品店。観光客はほとんど歩かないが、朝は配送の人がせわしく出入りして、夕方は部活帰りの中学生が自販機の前に集まる。そこには名所の説明板も洒落たベンチもない。そのかわり、店の裏口、勝手口、通用口がやたらと多い。きれいな表通りを維持するための動きが、まとめて集まっている。
こういう場所は、雑多だから外されるのではない。むしろ整いすぎた紹介文に入らないから外される。観光パンフは「この街らしさ」を短い言葉にしたがるけれど、街はそんなに素直ではない。神社のすぐ近くにコインランドリーがあり、人気カフェの裏で油の回収車が止まり、ホテルの横で夜勤明けの人がパンをかじる。観光地は、見せたい景色だけで立っているわけではない。 けれど、パンフはだいたい正面しか使わない。
「裏通り」という呼び方には、少し変な名誉がある。秘密っぽい、通っぽい、知る人ぞ知る、という響きがつくからだ。けれど実際の裏通りは、そんなに気取っていない。段ボールが積まれ、室外機が唸り、休憩中の店員がしゃがみ込む。観光用の言葉に直せば急に価値が出る、という話でもない。価値はすでにある。ただ、それが写真向きではないだけだ。僕は「裏通り」を、主役になれない場所への慰めとしてではなく、街の裏方を引き受ける名前として読みたい。
パンフが触れない地区について考えるとき、いちばん気になるのは、そこに住む人まで街の外側に押しやられやすいことだ。案内図に載らない場所は、ないことにされやすい。すると家賃の安さだけが都合よく使われたり、少し問題が起きただけで「雰囲気の悪い一角」と決めつけられたりする。表通りの華やかさが称賛されるほど、その背面にある区画は説明を奪われる。知られていないのではなく、語る順番を後ろに回され続けている。
修学旅行の事前学習で街を調べると、僕らはまず名所から覚える。でも、現地で印象に残るのは、地図に大きく書かれた場所より、むしろその途中で見える細い通りだったりする。開店前の店先、生活用品の特売、壁の古い塗装、別の国の言葉が混じる会話。そういうものは「おすすめスポット」にならない。それでも、街を一枚の紙より厚くするのは、そうした部分だ。観光パンフから抜け落ちる地区は、街の失敗作ではない。正面からこぼれた仕事や生活が集まることで、別の密度を持った区画になっている。そこを歩くと、きれいに紹介された街より先に、誰がこの街を支えているのかが見えてくる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。