ツゲノリコ(62歳・旅館の仲居38年)
仲居は、お客様の滞在の終わりに立ち会わない。チェックアウトの精算は帳場の仕事で、私たちはお見送りに玄関へ並ぶだけ。お客様の車が坂を下りていくのを見届けて、それから二階へ上がる。発たれたばかりの部屋へ、片付けに入る。お客様のいなくなった部屋には、その人の滞在の終わり方が、まだあたたかいまま残っている。
朝の十時、窓の外には澄んだ秋の空が広がっていて、部屋にはまだ朝食の味噌の匂いがほのかに漂っていた。私は襖を開けて、その晩の名残の中に立つ。お客様の顔は、もう忘れている。見送ったばかりなのに、覚えていない。それでいい。覚えているのは、いつも部屋のほうだ。
布団の畳まれ方には、いくつもの種類がある。きちんと三つ折りにして、枕まで上に揃えて帰る方。掛布団だけをふわりとめくって出ていく方。寝乱れたまま、起きた形のまま帰る方。どれが正しいということはない。畳むのはこちらの仕事だから、お客様は何もしなくていいのだ。それでも、きちんと畳まれた布団を見ると、私はつい、これは「ありがとう」の形だ、と思ってしまう。
けれど、それは読みすぎなのかもしれない。畳む方は、ただ家でもそうしているだけかもしれない。何もせず帰る方が、感謝していないわけでもない。滞在のあいだ、廊下ですれ違うたびに頭を下げてくださった方が、布団は起きたままで発たれたこともある。畳み方は、その人の習慣であって、心ではない。そう自分に言い聞かせる。読みすぎは、仲居の職業病だ。
茶器を見れば、昨夜の部屋の時間がわかる。座卓に伏せた茶碗が二つ。二つとも内側が薄く色づいていれば、お二人で飲まれた。片方が伏せたまま乾いていれば、一人は飲まなかった。急須の蓋がきちんと閉まっているか、半分ずれているか。茶筒の蓋が開いたままのこともある。誰かが、もう一杯いれようとして、やめたのだ。茶器は、二人がどんなふうにその晩を過ごしたかを、こちらに教えてしまう。
ゴミ箱の中は、見ない。これは決めていることだ。中身を覗けば、もっといろいろなことがわかってしまうだろう。けれど、それは仲居の仕事ではない。私は袋ごと持ち上げて、口を結んで、新しい袋をかける。見ないというのも、一つの作法だ。お客様の滞在には、こちらが立ち入ってはいけない場所がある。
忘れ物がいちばん多いのは、充電器だ。コンセントの陰、座卓の下、枕元。白い細い線が、抜かれないまま残っている。次に多いのが、浴衣の帯や、お風呂のタオル。それから、たまに、お心付けの封筒。少し前までは、枕の下や座卓の隅に、白い封筒が置かれていることがよくあった。最近は、ずいぶん減った。時代なのだろう。忘れ物の連絡の電話をかけるとき、私は呼び出し音を三つ数えてから、声の調子を整える。お客様の旅の余韻を、壊さないように。
片付けが終われば、次のお客様までの時間が始まる。布団を上げ、畳を拭き、茶器を洗い、窓を開けて空気を入れ替える。さっきまであった誰かの滞在の終わりは、すっかり消えて、何もなかった部屋に戻る。次の方が、夕方には別の時間をここに置いていく。仲居は、その入れ替わりのあいだだけに立ち会う人なのだと思う。
三十八年、私は何万室のチェックアウトを片付けてきたかわからない。畳まれた布団は、お客様がこちらへ残していった、声に出さない手紙なのだ。受け取る人がいなくても、ちゃんと書かれている。それを読む癖が、立ち会えない時間を生きる私を、いまの私にしてくれたのだと思う。今日も坂の下で、どこかのお客様の車が、宿に背を向けて走っていく。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。