弾けないんです、と言った日
調律師三年目、初めての一人仕事で

ツカモトハルオ(63歳・ピアノ調律師40年)

ピアノの調律という仕事を四十年近く続けている。鞄の中にはいつも、チューニングハンマーと、ラ=四四〇ヘルツの音叉が入っている。ハンマーは弦を巻くピンを回す道具、音叉は基準の音をくれる道具。この二つさえあれば、たいていのピアノは整う。整え方を覚えるのに三年かかり、自分の耳を信じられるようになるのに、もう何年かかかったと思う。

調律師は、ピアノを弾く人ではない。音を聴いて、ずれを直す人だ。半音の、そのまた何十分の一というわずかなずれを、うなりの速さで聴き分ける。二本の弦が同じ高さで鳴るとき、うなりは消えて、音はまっすぐになる。私たちの仕事は、そのまっすぐを作ることであって、その上で曲を奏でることではない。

見習いを終えて初めて一人で仕事に出たのは、一九八九年の春だったと思う。郊外の、小さな庭のある家だった。応接間に古いアップライトがあって、長く調律していないということだった。私は鞄を開け、ハンマーと音叉を出し、鍵盤の蓋を上げた。西日が鍵盤に静かに落ちていて、象牙の白がやわらかく光っていた。

調律を始める前に、私はいつも鍵盤を全部押してみる。すると、鍵盤の下から、いろんなものが出てくる。その日は消しゴムが一つと、錆びたヘアピンが二本、鍵盤の隙間から転がり出てきた。子どものいる家のピアノには、よくあることだった。私は黙ってそれをハンカチに包み、ピアノの上に置いた。ピアノの上には、家族の写真立てと、白いレースの敷物があった。

三時間ほどかけて、ピアノは整った。低い弦のうなりが消え、高音の濁りが取れて、和音がまっすぐ立ち上がるようになった。私は道具を片づけ、依頼主のお母さんに、終わりましたと告げた。するとその人は、嬉しそうにこう言った。「せっかくですから、何か弾いてくださいな」。

私は、弾けないんです、と答えた。お母さんは少し驚いたようだった。調律師というのは、ピアノの先生のように弾ける人だと、世間では思われている。けれど私は本当に弾けなかった。バイエルの一番すら、最後まで弾けない。気まずい沈黙が、応接間に流れた。レースの敷物の上で、写真立ての家族が笑っていた。

その沈黙を破ったのは、奥から出てきた小学生の女の子だった。その家の娘さんで、ピアノを習っているらしかった。女の子は椅子に座ると、バイエルを一曲、たどたどしく弾いた。指はときどき止まり、音は決して上手ではなかった。けれど私は、はっとした。自分が三時間かけて整えたピアノが、初めて、他人の指で鳴ったのだ。自分の直したピアノの「直り方」を、私はそのとき初めて聴いた。私が作ったのは音ではなく、この子がこれから弾く音のための、まっすぐな道だったのだと思った。

あれから四十年近く、私は数えきれないほどの家庭のピアノを調律してきた。そして、いつのまにか、ピアノそのものより、ピアノの上に置かれたものを見るようになった。写真立て、レースの敷物、月謝袋。それらは、その家の音楽が誰のためのものかを、静かに語っている。弾けないと言ったあの日から、私は弾く人ではなく、聴く人として、家庭の景色の観察者になった。あの一言が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。鞄の中のハンマーと音叉は、今日も静かに私を待っている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。