ツムラサエ(36歳・新幹線の車内清掃9年)
忘れ物には、タグをつける。窓の外には夕暮れの光が静かに差し込んでいて、車内には一日の終わりの匂いが漂っている。私はそのタグに、号車と、座席番号と、発見時刻を書く。三つだけ。書いたら遺失物の引き継ぎ窓口へ回す。それで私の役目は終わる。
定番は決まっている。傘、紙袋、スマホ。この三つで忘れ物の半分は説明がつく気がする。傘は座席の足もとに立てかけたまま、紙袋は座席の下に置いたまま、スマホは座席ポケットの中。座席ポケットの奥は、指を二本入れて、底を撫でるように確かめる。ぬくもりがまだ残っているスマホを見つけると、ついさっきまで誰かがここにいたのだと、少しだけ胸が締めつけられる。
季節も忘れていく。夏は帽子。麦わらの、つばの広いやつが網棚に乗ったまま、終点まで来る。冬は手袋の、片方。両方そろって落ちていることはほとんどない。片方だけが座席に残されて、もう片方はきっと持ち主のポケットの中にある。私はその片方を拾って、タグをつける。手袋の片方ほど、持ち主に戻りにくいものはないのかもしれない。
網棚のものは、見落とされる。これは法則だと思う。人は荷物を上に上げたことを、降りるときに忘れる。だから私たちは、折り返しの七分の中で、必ず首を上げる。座席を回し、テーブルを拭き、それから一度、網棚を見上げる。屈むより、見上げるほうがつらい。腰ではなく、首の後ろに来る。それでも見上げる。網棚を見ない清掃は、清掃ではない。
いちばん切ないのは、お土産の紙袋だ。中は見ない。それが作法だから。けれど見なくてもわかる。重さと、角の張り方と、口から覗く包装紙の色で、それが誰かに渡すはずだった物だと、なんとなくわかってしまう。渡せなかったお土産が、誰のものにもならずに私の手の中にある。その人は、改札を出てから気づくのだろうか。それとも、渡す相手の顔を見てから気づくのだろうか。
座席ポケットの奥からは、ときどき領収書と本が出てくる。領収書はたいてい、くしゃくしゃに丸めてある。本は、栞のかわりに領収書を挟んだまま、途中で止まっている。読みかけのページが何ページなのか、私は確かめない。確かめる時間はない。タグをつけて、窓口へ回す。それだけだ。
タグを書く数十秒は、七分の中で、いちばん「人」を考える時間だ。この傘の持ち主はどんな雨の日にこれを買ったのか。この帽子はどこの海へ行くはずだったのか。けれど、考えすぎると遅れる。新人の頃、先輩に言われた。「考えるな。手を動かせ」。考えない訓練を、私は九年してきた。それでも、ペンを走らせる数秒の間に、考えてしまう。考えないようにすればするほど、その数秒が、やけに長くなる。
終点の忘れ物は、多い。みんな、終点だからもう降りるだけだと油断する。終点ほど、人は物を置いていく。私はそのひとつひとつにタグをつけて、窓口へ回す。後日、「届きました」という声が窓口に届くこともあるらしい。けれど、その声は清掃員には届かない。私は忘れ物の行く末を知らない。タグを書いて、手放して、次の七分が来る。それだけが、私のする全部だ。
忘れ物のタグは、ただの事務の紙ではない。それは、降りた人と、置いていかれた物との、橋渡しなのだと、いまでは思う。号車、座席番号、発見時刻。その三つの文字に、私は会ったことのない誰かのことを、少しだけ預ける。今日も折り返しの七分が来る。私は手袋をはめて、また乗り込む。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。