ウオズミショウ(46歳・段ボール箱の設計者22年)
春になると、引っ越しの箱の図面を引く。通販の箱とは別の思想で作る箱だ。通販の箱は、一度しか開けられない。中身を出したら畳まれて捨てられる。だが引っ越しの箱は、詰めて、運ばれて、開けて、また畳まれて、次の春にもう一度使われる。新生活の門出に寄り添う、いわば人生の節目の伴走者なのかもしれない。
引っ越しの箱には、相手が二人いる。詰めるのは素人だ。今夜引っ越すと決まった家族が、台所の食器を新聞紙にくるんで詰める。運ぶのは作業員だ。一日に何百個と持ち上げ、階段を上り、トラックに積む。詰める手と、運ぶ手。要求が違う二人の手に、同じ一つの箱で応えなければならない。
持ち手の穴で、いつも迷う。両側面に穴があれば、作業員は指をかけて持ち上げられる。腰が楽だ。だが穴は、箱を弱くする。段ボールの強度は、面が連続していることで生まれる。穴をあけた瞬間、そこから座屈が始まる。穴を開けるか、開けないか。私は穴の位置を、上から三分の一の高さに置く。底に近すぎれば荷重の通り道を断ち、上すぎれば指が中身に当たる。穴一つの高さを、何ミリの単位で決めていく。
本の箱は小さく、服の箱は大きく作る。これは人間工学の原則だ。本は重い。大きな箱に本を詰めれば、二十キロを超えて、誰も持ち上げられない箱になる。だから本用は小さく、満杯でも持てる重さで頭打ちになるように外寸を決める。服や布団は軽くてかさばる。大きな箱に詰めても重くならない。重さと体積——人間の腕が持てる限界から、箱の大きさは決まる。中身の都合ではなく、運ぶ人の腰から逆算するのだ。
底は、ガムテープなしで組めるようにする。ワンタッチ底、という機構だ。四枚のフラップに切り込みと折り筋を入れておき、箱を起こして底を押すと、四枚が互いに噛み合って自分で底になる。テープを切らずに、何百個も次々と組める。引っ越しの朝、テープガンの音が鳴り止まない現場で、底を組む数秒を省く。その数秒の積み重ねが、一日の終わりの作業員の腕に効く。組み方の知恵が、底の四枚の切り込みの形に畳み込まれている。
引っ越しの箱は、繰り返し使われる。春の繁忙期には増産する。工場の罫線機が昼夜で回る。そして秋、運送会社から返却された箱が戻ってくる。角が潰れ、持ち手の穴が裂け、底の噛み合わせが甘くなっている。何度使えるか。それも設計の数字だ。再利用の傷みを見込んで、初めから少し強めの段で組んでおく。一度で捨てられる通販の箱より、引っ越しの箱の段は厚い。何度も春を越せるように。
中古の引っ越し箱には、前の家の痕跡が残っている。側面に、マジックで「キッチン」と書かれている。前の引っ越しで、誰かが台所の物を詰め、新しい家の台所に運ばれた箱だ。それが返却され、また別の家族のところへ行く。「キッチン」と書かれた箱が、知らない家の台所から、別の知らない家の台所へと旅をする。箱は中身を覚えていないが、マジックの字だけが残る。
引っ越しには、必ず同じ悲喜劇がある。「箱が足りない」と電話が来る。あるいは「箱が余った」と返却される。人は自分の荷物の量を、いつも見誤る。設計する側からは、その過不足の総量が見えている。一軒あたり平均何個。家族の人数で何個。私たちは、人が見誤る分まで見込んで増産する。足りないと言われ、余ったと返される。その振れ幅のなかに、引っ越しという行為のすべてがある。
あれから二十二年。引っ越しの箱を見るたびに思う。詰める素人と、運ぶ作業員。重さと体積。穴の高さと底の噛み合わせ。両方の手に優しい箱が、いい箱なのだ。春の朝、テープガンの鳴る現場で、私の設計した箱が、誰かの新しい暮らしへと運ばれていく。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。