ウオズミショウ(46歳・段ボール箱の設計者22年)
青果の箱を引くとき、私は中身が生きていることを忘れない。収穫されたあとも、野菜と果物は呼吸している。糖を分解して熱を出し、水を吐く。箱に詰めて蓋をしても、その営みは止まらない。机の上の図面の中で、中身はまだ生きている。産地の人の想いを乗せて食卓へ届く、いわば命のリレーの伴走者なのかもしれない。
だから青果の箱には穴をあける。通気穴だ。呼吸が出す熱と湿気を逃がさなければ、箱の中で蒸れて、中身は傷む。穴を大きくすれば、よく抜ける。だが穴は箱を弱くする。段ボールの強度は、面が連続していることで生まれる。穴をあけた瞬間、そこから座屈が始まる。逃がす力と、支える力。一つの面の上で、この二つがぶつかる。私は穴の位置を、積んでも下の箱の天面で塞がらない側面の上寄りに置く。熱は上に抜けたがるから、穴も上寄りでいい。直径と数と高さを、何ミリの単位で詰めていく。
同じキャベツでも、産地が違えば箱が違う。寒い土地のキャベツは、長い距離をトラックで運ばれる。だから段を厚くし、通気穴を控えめにして、冷気で締まった玉を守る。近い土地のものは、その日のうちに市場へ着く。箱は薄くてよく、穴は大きくていい。箱の違いは、産地の気候と、市場までの道のりと、長く積み上げてきた運送の歴史が決めている。私は中身ではなく、その土地から市場までの距離を設計しているのだと思う。
いちばん難しいのは、いちばん柔らかい中身だ。ももや、いちご。指で押せば痕が残る。これらは、もはや段ボールの強度だけでは守れない。一個ずつの窪みを成型したトレイに、果実を寝かせる。トレイの窪みの深さと角度を、果実が転がらず、しかし触れすぎないように決める。その上にフィルムをかけ、最後に外箱で囲う。外箱は中身に触れない。触れているのはトレイとフィルムで、外箱はその柔らかい小宇宙を、ただ外側から支える殻になる。一番柔らかいものを守るために、設計はいちばん繊細になっていく。
市場の朝を、私は見に行くことにしている。自分の箱が、現場で何段に積まれるかを、この目で確かめるためだ。図面の上では、積載段数は荷重計算で出る。何段重ねれば最下段が座屈するか、机の上で数字は出る。だが市場の競りの前、フォークリフトが運んでくる山は、ときに計算より一段高い。現場は理屈どおりに積まない。理論と現場の差を、私は薄暗い市場の床の上で、自分の箱の潰れ具合として受け取る。
豊作の年には、悲鳴のような相談が来る。今年は大玉だ、と。天候に恵まれた年、果実はいつもより一回り大きく実る。だが箱は、平年の標準的な大きさに合わせて、前の年に設計してある。大玉が、窪みに収まらない。蓋が浮く。豊かさが、箱に入りきらない。自然の当たり年に、人の用意した規格のほうが追いつけない。私は急いで、その年だけの箱を引き直す。豊作は、設計者にとっては嬉しい悲鳴なのかもしれない。
青果の箱の側面には、産地の絵と文字が刷ってある。雪をかぶった山、笑う太陽、その土地の名。B段は薄くて印刷がよく乗るから、青果の箱は絵を載せやすい。市場に積まれた箱の山は、産地の名前の山でもある。買い手は中身を見る前に、まず側面の産地を見る。段ボールは、ただの容れ物ではなく、産地の顔でもあるのだ。
梅雨どきには、湿気との戦いになる。段ボールは紙だ。空気中の水を吸えば、繊維がふやけて腰が抜ける。へたる、と私たちは言う。へたった箱は、積めば下から潰れる。青果は水を吐くから、箱は内側からも湿る。外と内の両方から攻められて、紙の腰が抜けていく。だから青果用の段には、撥水の加工をした原紙を使う。湿気のなかでも腰が抜けない紙。雨の季節の箱には、雨の季節の設計がある。
あれから二十二年。青果の箱を見るたびに思う。呼吸する熱を逃がす穴、産地ごとの距離、柔らかい中身のトレイ、市場の朝の積み上げ、大玉の年の悲鳴、梅雨のへたり。生きている中身のための設計なのだ。市場の朝、競りのはじまる前の床の上で、私の設計した箱が、誰かの食卓へと運ばれていく。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。