ウラカワセナ(29歳・酪農ヘルパー7年)
夕方の搾乳を終えてノートを閉じようとしたとき、農家が戸口で言った。「8番、今夜あたりだ。すまんが見ていてくれ」。預かりは明朝まで。ノートには「8番、安産系。前回も一人で産んだ」とあった。前回も一人で産んだ牛だ。それでも農家は、見ていてくれ、と言って帰った。
8番は立っては座り、また立った。敷き藁を前肢で掻く。尾の付け根が持ち上がって、陰部から糸を引くものが垂れている。私は房の外に椅子を出して、ミルカーの洗浄を後回しにした。手を出す場面ではない。お産は牛がする。私はそれを邪魔しない位置に座っていればいい。
切れかけた蛍光灯が瞬く。ほかの牛は伏せて、ごく、ごく、と草を戻している。私はいつ農家に電話をするかを考えていた。尾を上げた、いまか。早い。母屋の灯りはもう消えている。起こせば、ただ立って待つだけの時間に付き合わせることになる。私は一度持った携帯を、膝の上に伏せた。破水まで待つ。前肢の向きを確かめてから掛ける。それまでは、私が見ている。
夜半過ぎ、8番が長く唸って腰を落とした。陰部から白い膜がのぞき、その中に蹄が二つ。私は懐中電灯で蹄の裏を見た。裏が下を向いている。前肢、正常。ここで電話を掛けた。「破水しました。前肢、向きは正常。進んでます」。農家は「すぐ行く」とだけ言って切った。これでいい。立ち会いたい瞬間には、たぶん間に合う。
ところが子牛は肩で止まった。陣痛が二度、三度来ても、その先へ出ない。8番のいきみが、さっきより弱くなってきた。膜から出た子牛の舌が、横に垂れて白っぽい。私はロープを子牛の両肢にかけた。指を子牛の口に入れる。冷たい。もう待てない。私は8番がいきむのを待ち、いきんだその一拍だけ、斜め下へ引いた。力ではなく、波に乗せる。二回、三回。肩が抜けると、あとは塊が滑り落ちた。羊水が藁に散った。生臭い。
子牛は動かない。私は鼻と口の膜を指でかき出し、藁を一束つかんで胸を強くこすった。耳の中に藁の先を入れて回す。十数えても息が入らない。二十。ぶる、と鼻が鳴って、肋が一度大きく動いた。入った。私は母屋から預かった冷凍初乳を湯せんにかけ、指を浸して温度を見た。熱くない。生後二時間のうちに、二リットル。哺乳瓶の乳首をくわえないので、最後はカテーテルで胃へ落とした。初乳だけは、遅らせられない。
農家が駆け込んできたのは、子牛が二度倒れて三度目で立った、ちょうどそのときだった。「産まれたか」。農家は濡れた背に手を置いて、しばらく黙っていた。私たちは並んで、子牛が母牛の乳を鼻で探すのを見ていた。私は手の甲についた羊水を、作業着の腿で拭いた。
翌朝、引き継ぎのとき農家が言った。「よくやってくれた。あの止まり方は、引かなんだら危なかった」。私は頭を下げて、けれど引いた一拍をまだ反芻していた。あのとき、8番のいきみは本当にもう弱っていたか。舌が白かったから引いた。引いて正解だったと、たぶん思う。たぶん、を消せないのが、よその牛のお産だ。私は鍵を握って、戸のほうへ歩いた。次の牛舎のノートが、鞄に入っている。