ウスイマコ(39歳・道路管制センターオペレーター15年)
落下物の第一報は、たいてい一本の電話から始まる。事故のように感知器が教えてくれるわけではない。走っている誰かが、ハンドルを握ったまま、見たままを言葉にしてくれる。だから最初に届くのは、いつも少しだけたどたどしい言葉だ。
「何かが落ちてる、たぶん毛布」。「タイヤみたいなもの」。受話器の向こうの声は、たいてい曖昧だ。それも無理はない、時速八十で流れていく路上を、人はほんの一瞬しか見られないのだから。私は落ち着いた声で、決まった項目を順に訊いていく。上りか下りか、いちばん近いキロポストはいくつか、走行車線か追越車線か。その三つさえ埋まれば、私は盤面の上に、見えない一点を打てる。
位置がCCTVの画角に入っていれば、私はカメラをそこへ向ける。レンズが捉えてくれれば、毛布が毛布なのか、それとも段ボールの潰れたものなのかが、ようやくわかる。けれど、カメラには間隔がある。そのあいだに落ちたものは、どんなにレンズを振っても映らない。映らないものは、確かめにいくしかない。私は巡回車を、その地点へ向かわせる。
巡回車が現場に着いても、すぐには拾わない。後続の車をやり過ごし、車線を規制し、回収する人が路上に降りる安全を確保してから、ようやく拾う。本線の上では、毛布一枚を拾うのにも手順がある。私はその一部始終を、カメラ越しに、息をつめるように見守っていたのかもしれない。
落下物は、その季節の世相をそのまま映す鏡のようなものだ。引っ越しの多い春先には、運びきれなかった家具やマットレスが落ちる。行楽の季節には、ルーフから滑ったキャンプ用品やクーラーボックスが落ちる。そして、季節を問わず一年中あるのが、タイヤと、荷台のシートだ。盤面に打たれた一点の正体を、私は当ててみることがある。三月なら、たぶん家具。八月なら、たぶんレジャー用品。たいてい、当たる。
回収が終わるまでのあいだ、私は手前の情報板に「落下物注意」と出す。たった六文字。そこに「毛布」とも「タイヤ」とも書く余白はない。何が落ちているのかを、いちばん知らせたいのに、文字数がそれを許さない。私はいつも、その四文字の足りなさを、少しもどかしく思いながら承認ボタンを押す。
回収された落下物は、しばらく保管される。持ち主が名乗り出れば返せるように、決められた期間だけ、棚に置かれる。けれど、取りに来る人は、ほとんどいない。マットレスも、クーラーボックスも、誰のものでもないまま、期間が過ぎていく。高速道路は、世界でいちばん大きな落とし物箱なのだ。誰も取りに来ない、忘れられた箱。
そして毎回、私が驚かされるのは——落とした本人が、たいてい気づいていない、という事実だ。あれだけ大きな家具を落としても、ルーフの上が軽くなったことに、人は気づかずに走り去っていく。第一報をくれるのは、いつも落とした人ではなく、後ろを走っていた、見ず知らずの誰かなのだ。
落下物の数は、年間で桁違いに多い。その一つひとつに、たどたどしい第一報があり、向かう巡回車があり、棚の上で忘れられていく時間がある。誰にも気づかれずに落ち、誰にも気づかれずに片づく。落下物とは、道路が日々受け取り続ける、宛名のない手紙のようなものなのかもしれない。私は今日も、その最初の一行を、受話器越しに聞いている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。