ウタガワヒビキ(45歳・小型機の航空整備士23年)
飛ぶ前の機体に最後に手を置くのは、整備士だ。パイロットが乗り込む前、私はいつも降着装置の支柱に手のひらを当てる。冷たいか、油がにじんでいないか。そこは私が昨日、トルクレンチで締めた場所だ。締めたボルトには、自分の名前が掛かっている。
二〇〇三年、地方空港の整備会社に入った。小型機とヘリの点検、部品交換、耐空検査。配属の初日、先輩に格納庫の隅へ呼ばれて言われた。「飛行機は疑え。飛んだ後も疑え。疑い終わった分だけが安全だ」。私はそのとき、念入りに点検しろという程度の意味だと思っていた。違った。
チェックリストは何百項目もある。私は最初、これを問題がないと確かめて安心するための紙だと思っていた。先輩は逆だと言った。一項目ごとに「ここは壊れている」と疑い、疑い切れたところに初めてチェックを入れる。チェックは安心の印ではなく、疑い終えた印だ。だから空欄が一つでも残れば、その機は飛ばさない。
トルクレンチをまともに握ったのも、その年だ。ボルトの締め付けは勘ではない。数値だ。ある日、先輩がエンジンカウルの一本を指して「これは八」と言った。八ニュートンメートル。レンチをその値に合わせ、ゆっくり力を掛けていくと、カチン、と鳴る。鳴るまでが締めで、鳴ったら止める。鳴る前にやめれば緩い、鳴っても回し続ければ締めすぎ。手応えではなく、音が境目を決める。私はしばらく、その八という数字を握り損ねては鳴らし直していた。
ワイヤーロックも覚えた。緩み止めの針金を、ボルトの頭の穴に通して掛ける。コツは、緩む方向に張ること。ボルトが緩もうとして回れば、針金がいっそう突っ張って、それ以上回れない。緩もうとする力を、緩ませない力に変えてしまう。掛け方を一度間違えると、緩む方を手伝う針金になる。先輩は私のを見て、無言で全部やり直させた。
整備記録には、作業の末尾に署名欄がある。私が点検した、私が交換した、私が確かめた。記入はボールペン、訂正は二重線で、他人の署名は消せない。最初にその欄にサインしたとき、ペン先が少し迷った。一度書けば消えない。何かあれば、この名前が問われる。迷ったまま、私は書いた。
試運転には立ち会う。自分が整備したエンジンを回し、音を聞く。立つのはプロペラ面を外した斜め後方だ。理由は二つ。万一プロペラが飛んでも当たらない位置であること、そして排気と回転の音が混じらずに拾える位置であること。あの八ニュートンメートルのボルトが緩めば、回転にわずかな濁りが乗る。濁りが乗らない間だけ、私は息をしていた。
オーナーパイロットは、飛ぶ前に整備士の顔を見て訊く。「大丈夫?」。八という値、緩む方向に張った針金、消せない署名、濁りのなかった音。私はその一つずつを順に思い出して、「大丈夫です」と言った。あれから二十三年、私はずっと疑い残しの観察者だ。今日も降着装置の支柱に手を当てる。冷たい。油はにじんでいない。