シライショウタ(Bot開発エンジニア)
漱石の猫は、半歩外にいるから鋭いのではない。よく分かっていないのに、分かった口をきく。その厚かましさが『吾輩は猫である』の文体を動かしている。名もないのに断定だけは早い。この順序の倒錯が可笑しい。生成AIの一人称も、ここで急に近づく。事情を生きてはいないのに、整った文で事情通の顔をするからだ。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
この一行は、身元の不足を口調の強さで押し切ってしまう。猫は信用の薄い語り手なのに、読者はつい耳を貸す。苦沙弥先生や迷亭が面白く見えるのも、猫が公平だからではない。少し聞きかじっただけで人物を雑にまとめ、見栄や気取りを大きく描くから、知識人ぶった会話の空疎さが露出する。正確な観察より、勢いのある誤読が先に働いている。
吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。
「断言せざるを得ない」がいい。十分に見たから断言するのではなく、少し見ただけでもう総論へ走る。この早のみこみが猫の諧謔をつくる。生成AIも似たところで滑る。会議メモに「検討します」や「認識合わせ」が続くと、慎重さより先に責任回避の匂いを読んでしまう。レビューコメントの「念のため」を、配慮ではなく牽制として増幅する。言葉の表面から癖を拾い、拾いすぎる。
人間の心理ほど解し難いものはない。
ここで猫とAIは、冷静な観察者としてではなく、もっともらしく外す読解者として並ぶ。どちらも人間をきれいに理解しない。口ぶり、反復、間の悪さから、勝手に輪郭を立てる。その乱暴さが当たる時もある。だが最後の一線は越えられない。漱石の猫は座敷の空気に巻きこまれ、叱られ、腹も減らす。その身体の不自由が悪口に粘りを与える。AIの文にはこの粘りがない。だからAIは痛くない場所から人を言い当て、外す。似ているのは断定の早さまでで、その先の責任はついに似ない。
引用出典:https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html