五時間目の、世界の終わり(第二稿)
小三の娘が、道徳の時間に習ってきた曲

ワキサカユタカ(43歳・文具メーカー営業20年。十四歳のとき、ノートの最後のページにバンド名だけを書いていた)

木曜の夜、風呂から上がった娘が、髪を拭かれながら言った。「きょうね、どうとくで、せかいのおわりやったよ」。小学三年生の口から、世界の終わり、という言葉が、宿題やプールの持ち物と同じ調子で出てきた。聞き返すと、バンドの名前だった。SEKAI NO OWARI。先生が教室で曲を流したのだという。「天使と悪魔」という曲だった。

私がこのバンドの名前を初めて見たのは、二十代の終わりだった。CD屋の新譜の棚に「世界の終わり」とあって、ずいぶん大きく出たな、と思った。正直に言えば、少し笑った。それは、中学生がノートの最後のページに書く種類の名前だと思ったからだ。なぜ知っているかというと、私のノートの最後のページに、書いてあったからだ。バンドは組んでいない。楽器も、メンバーもなかった。名前だけがあった。ARMAGEDON。大文字のローマ字で、定規で囲ってあった。Dが一つ足りないことは、大人になってから知った。

私はいま、ノートを売って生きている。商談で語るのは、罫線の幅と、にじまない紙の厚さと、ページの開きやすさだ。最後のページが何に使われるかは、二十年売ってきて、一度も商品説明に出てきたことがない。

授業の中身を、娘は夕食のあいだに報告してくれた。先生は曲を流したあと、「天使と悪魔は、見た目で見分けられますか」と聞いたらしい。手を挙げた子たちの答えは、つのがあるから分かる、はねの色がちがう、こわい顔をしている、だった。三年生の教室の、正しい答えだと思う。娘は手を挙げなかった。挙げなかった理由を聞くと、「ちがうこと、かんがえてたから」と言った。

ちがうことって、なに。と聞くと、娘はミニトマトを口に入れて、しばらく黙った。「あのうたって、けんかのうたでしょ。おとなの」。うん。「けんかってさ、悪魔がしてるのかなって、かんがえてた」。してるんじゃないの。「えっとね、ちがうの。あのね」。娘は言い直した。「けんかしてる人は、どっちも、じぶんが天使だとおもってるの。じぶんが悪魔だとおもってる悪魔って、いる?」。いない、と私は言った。「でしょ。だから、いくらさがしても、悪魔って、いないんだよ」。私は味噌汁の椀を持ったまま、止まっていた。どこでそれを習った。「ならってない。かんがえたの」。

道徳のプリントを見せてもらった。曲の題名が刷ってあって、下に「かんそうをかきましょう」の枠があった。数えると、三行だった。世界の終わりに、三行。私が十四歳のとき、世界の終わりはノートの最後のページに住んでいて、最後のページというのは、つまり、誰もめくらないページのことだった。娘のプリントには、最初から枠が刷ってある。書いたら先生が読んで、はなまるが付いて、返ってくる。

食後、私は娘に白状した。お父さんも中学生のとき、バンドをやろうとして、名前だけ決めていた。世界が終わるみたいな名前を、ノートの最後のページに書いていた。かっこいいと思っていた。娘は、ばかにしなかった。「ふうん」と言って、それから少し考えて、言った。「でも、それ、つけられたんだから、よかったね」。どういう意味、と聞いた。「ほんとうにおわってる人は、なまえとか、つけてるひま、ないとおもう」。私は何も言えなくて、麦茶を注いだ。自分のと、娘のと、二つ。

歯みがきのとき、娘が泡の口のまま、考えの続きを落とした。「さきにさ、じぶんで、おわりっていっちゃうとさ」。うがいをして、続けた。「だれにも、いわれなくてすむでしょ。だから、いうんだよ、きっと」。それだけ言って、コップを置いて、寝に行った。

娘が寝たあと、私はイヤホンを差して、初めてちゃんと「天使と悪魔」を聴いた。正義という言葉が、何度も出てくる歌だった。十四歳の私が聴いたら、歌詞をノートに写しただろう。四十三歳の私は、サビで一度だけ、巻き戻した。

翌朝、考察の続きを聞くつもりで食卓についたら、娘はもう別の場所にいた。「ねえ、きょうずこうで空きばこいるの。ティッシュのはこ、すてないでっていったよね」。それから、「けんばんハーモニカのホース、あらっといて。すいようびにいるから」。私は流しで、けんばんハーモニカのホースを洗った。ぬるい水が、ホースの中を通って、反対側から出てきた。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。