中止の、朝
飛ばないと決める、その判断の重さについて

ワクイソラ(31歳・熱気球パイロット9年)

空に憧れてこの仕事に就いた。けれど飛ぶことを夢見て入った世界で、いちばん多くやっているのは、飛ばないと決めることだ。気球は中止の多い乗り物である。シーズンを通して、半分飛べれば良い方だと言われる。夢と現実のあいだには、いつも風が吹いている。

夜明け前、いちばん暗い時刻に風速計を見にいく。気球が飛べる風は、案外せまい。地上で秒速三、四メートルを超えれば、もう着陸が荒くなる。霧が出れば視界が消える。そして厄介なのは、地上が凪いでいても、上空でだけ風が暴れている朝があることだ。下は静かなのに、二百メートルでごうごう鳴っている。飛べる条件は、針の穴のようにせまい。

風速計の数字が上限を超えていく。私はしばらく、その数字を見つめていた。飛びたい気持ちと、飛ばせない数字が、私のなかでせめぎ合う。やがて私は、ポケットの携帯を取り出す。中止の電話をかけるためだ。この電話が、いちばん重い。

今朝の予約には、遠方から来た家族がいる。前の晩から近くのホテルに泊まって、子どもは早起きして待っているのだろう。あるいは結婚記念日の夫婦。何ヶ月も前から、この朝のために予定を空けてくれた人たち。その人たちに、飛べません、と告げる。受話器の向こうで、息を呑む気配が伝わってくる。

「また来ます」と言ってもらえる朝がある。「そうですか」とだけ言って切れる朝もある。同じ中止でも、伝え方ひとつで、人の落胆の色は変わる。私はできるだけ、風のせまさを丁寧に説明する。あなたの安全のために飛ばさないのだと。けれど記念日は今日しかなくて、次にこの土地へ来られる保証は、誰にもない。

中止を決めた朝は、片付けがある。といっても、膨らませなかった気球を、ただ車へ積み直すだけだ。畳んだままのエンベロープ、火を入れなかったバーナー、空っぽの籠。九年もやっていると、この積み直しは手が勝手に覚えている。慣れた手つきで、飛ばなかった一日を、車に載せる。

判断の責任は、いつも一人で背負う。飛ばせば飛べたかもしれない朝の、あの後悔。飛ばなくてよかったと胸をなでおろす朝の、あの安堵。けれど中止にした以上、本当はどうだったのか、答え合わせは永遠にできない。飛ばさなかった空の正解を、私は一生知ることがない。決断とは、なんと孤独なものだろう。

そして、いちばんこたえるのは、中止を決めたあとで空が晴れわたっていくことだ。雲ひとつなく、朝日が昇り、完璧な青が広がっていく。お客さんは恨めしそうに空を見上げる——こんなに晴れているのに、と。けれど気球の基準は風であって、晴れではない。この説明が、いちばん難しい。美しい空ほど、私の判断を責めているように見える。

それでも私は、飛ばないと決められる自分でいたい。飛ぶ勇気と同じくらい、飛ばない勇気もまた、パイロットの資質なのだ。空に憧れて始めた仕事で、飛ばないことを引き受ける。その矛盾を抱えながら、私は今日も夜明け前の風速計の前に立っている。中止の朝もまた、私をパイロットにしてくれているのだと、いまでは思う。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。