ヤブキマドカ(35歳・空港保安検査員13年)
朝のいちばん早い便が動き出すころ、検査場の窓の外はまだ薄暗くて、ターミナルの照明だけが白々と灯っている。私の立つレーンの足元には、灰色のプラスチックの箱が一つ置いてある。蓋はない。だいたい腰の高さの台の下、トレーを流す装置のすぐ手前だ。あの箱の名前を、私たちは「放棄品」と呼んでいる。
機内に持ち込める液体は、一容器あたり百ミリリットルまで。それを縦横二十センチほどのジッパー付きの透明な袋に、一つにまとめて入れる。袋から物があふれたら、もう持ち込めない。ルールはそれだけだ。けれど、それだけのルールの前で、人は立ち止まる。買ったばかりの化粧水。空港の売店で選んだジャム。子どもの図工のハサミ。予備のライター。X線のモニターに映った影を、私は声に出す。「こちら、お持ち込みできないものですが」。
そこからの数十秒が、その人の数十秒になる。私は選択肢を並べるだけだ。ここで手放すか、宅配のカウンターでご自宅へ送るか、お見送りの方がいればその方に託すか。決めるのは、いつだってその人のほうだ。検査員は、決めない。決めさせない仕事ですらない。ただ、道を三つ示して、待つ。
飲み干す人がいる。ペットボトルの水でも、買ったばかりの炭酸でも、レーンの少し脇、列の邪魔にならないあたりに立って、喉を鳴らして一気に飲む。五百ミリのお茶を、目を閉じて飲み干したスーツの男の人がいた。飲み終えて、空のボトルを箱の横のゴミ入れにそっと置いて、何事もなかった顔で靴を脱いだ。あの数十秒の彼の喉を、私はいまも覚えている。
宅配カウンターは、検査場を出て右、エスカレーターの手前にある。私は腕を伸ばして方向を指す。「あちらで送れます」。走っていく人がいる。搭乗時刻が迫っていればいるほど、人は走る。化粧水一本のために走るその背中を見ていると、物の値段とは別の何かが、その人を走らせているのがわかる気がした。間に合えばいい、といつも思う。
そして、あっさり手放す人がいる。「あ、いいです」。一言で、箱に入れる。数千円の化粧水でも、土産のジャムでも、まるで使い終わったレシートのように。手放す速さに、私はいつも少しだけ息を呑む。けれどそれも、その人の選択だ。物を惜しむ心も、惜しまない潔さも、トレーの上の数十秒に等しく並ぶ。私はそれを、裁かない。
箱は、だいたい二時間で満ちる。繁忙期の朝なら、もっと早い。化粧水の上にジャムが乗り、ジャムの上に子どもの工作のハサミが乗る。刃に色画用紙の切れ端がまだ挟まったままのハサミだった。満ちた箱は回収されて、行き先は廃棄処分だと聞いている。誰かが数千円で買い、数十秒で手放した物が、最後に一つの箱の中で平らに均されていく。買われた値段も、手放した速さも、そこではもう関係がない。
十三年、私はこの箱のそばに立ってきた。手放すことは、その人の選択だ。私はただ、選択肢を並べる人だ。それでも、と思うことがある。物を手放すあの数十秒に、人はいちばん素直な顔をする。きっと、放棄の箱は旅の入口の関所なのだ。何かを置いていかなければ、人は遠くへ行けないのかもしれない。今日も私は、同じ言葉を言う。「こちら、お持ち込みできないものですが」。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。