稚魚の、便
食卓へではなく、養殖場へ運ぶ小さな魚たちのこと

ヤブサメチカゲ(40歳・活魚運搬の運転手18年)

活魚を運ぶ仕事には、二種類ある。ひとつは料理屋や市場へ、食べられる大きさの魚を運ぶ便。もうひとつは、養殖場へ、これから育つ稚魚を運ぶ便だ。後者を、私たちは「稚魚の便」と呼ぶ。同じ水槽を積んでいても、運ぶものがまるで違う。小さな命を運ぶというのは、こういうことかと思う。

稚魚は、とにかく弱い。体が小さいぶん、水温の変化や酸素の不足が、すぐに効く。大人のマダイなら多少の温度差は耐えるが、何センチかの稚魚は、わずか二度の差で横を向く。だから稚魚の便では、水温合わせを徹底する。種苗場の水槽の水温を測って、それと同じ温度の水を積む。一度や二度のずれも許されない、繊細な運びなのだ。

酸素の管理も、食卓向けとは桁が違う。大きい魚なら流量を指で覚えていればいい。だが稚魚は、酸素が濃すぎても薄すぎてもいけない。気泡が細かすぎると体に泡が付くし、足りなければ一斉に鼻上げする。だから細い管の先を何本にも分けて、水のあちこちから静かに送る。ボンベの目盛りを、私はいつもより何度も見る気がする。

稚魚は、一尾ではなく、何万尾の世界だ。食卓向けなら三十尾、五十尾と数えるが、稚魚を一尾ずつ数えていたら日が暮れる。だから数え方が違う。バケツ一杯にだいたい何尾と決めておいて、あとはバケツの数で勘定する。あるいは目方だ。何グラムでだいたい何尾、と換算する。何万という命を、バケツと秤で数える。これが稚魚の便の、独特の算数だ。

そして、輸送密度の計算がある。詰めすぎは、全滅のリスクだ。一槽の水に入れていい稚魚の数には、上限がある。多く積めば一度に稼げるが、酸素が回らず、アンモニアがたまって、着いたら全部死んでいる、ということが起こる。だから稚魚の便は、わざと薄く積む。水ばかり多くて魚の少ない、贅沢な運びだ。儲けより、生かして着けることが先に立つ。

養殖場に着くと、すぐには放さない。生け簀の水温と、運んできた水の温度を合わせる「ならし」をする。水槽の水を少しずつ生け簀の水と入れ替えて、稚魚の体を新しい水に慣れさせる。急に放せば、温度差で弱る。ならしには時間がかかる。私は放流に立ち会って、養殖場の人と一緒に、稚魚が生け簀へ散っていくのを見届ける。その時間が、なんだか好きだ。

稚魚の便には、「死着率」という言葉がある。輸送中に死んで着いた魚の割合のことだ。これが商売の取り決めになっている。何パーセントまでは見込みのうち、それを超えたぶんは運んだ側の責任、というふうに。着いた先で検品して、死んでいる稚魚を数える。保険もかかっている。命を運ぶ重みが、こうして数字と契約の言葉になっているのは、考えてみると不思議なことかもしれない。

稚魚の便は、春に集中する。種苗の季節だ。養殖場が稚魚を入れる時期が決まっているから、その前後だけ、稚魚の電話が立て込む。春の夜の高速を、私は何万の小さな命を積んで走る。食卓向けの便のときよりも、ブレーキを、いつもより慎重に踏んでいる自分に気づく。

何万の小さな命を、生かして着ける。水温を合わせ、酸素を細かく送り、薄く積み、ならして放す。死着率という言葉の向こうに、確かに生きている小さな魚がいる。この慎重なブレーキこそが、稚魚の便に対する、私の答えなのだと思う。小さな命の灯を消さないこと。それが、十八年走ってきた私の、もうひとつの仕事だった。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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