ヤヒロカエデ(37歳・香料会社の調香師15年)
柔軟剤やシャンプーの香りを設計する仕事を、十五年続けている。世間が「いい匂い」と呼ぶものの、配合表を知っている人間だ。すれ違いざまに誰かが「この人いい香り」と思うその一秒の裏側には、たいてい二十も三十も並んだ数字がある。私はその数字を書く側にいる。
二〇一一年、香料会社に入った。最初の一年は、ただ嗅ぐ日々だった。香料素材の棚には、何百という小瓶が整列している。ローズ、ジャスミン、ベルガモット、ムスク、それから合成香料の長い名前。一本ずつムエット——試香紙——に浸して、目を閉じて、名前を当てる。当たらない。また嗅ぐ。嗅覚は鍛えられる、と先輩は言った。本当だった。半年もすると、似た花の香りの違いが、舌で苦味を分けるように分かれてきた。
処方——フォーミュラ——を組み立てるとき、香りは平面ではなく時間として設計される。最初に立ち上がるトップ、しばらくして現れるミドル、最後まで肌や布に残るラスト。揮発の速い分子から遅い分子へ、香りは時間をかけて姿を変えていく。香水とはつまるところ、鼻の上で進行する短い曲のようなものだったのかもしれない、といまでは思う。時間の芸術なのだ。
師匠にあたる人がいた。配合表を覗き込みながら、その人はある日こう言った。「いい香りを作るな。売れる香りでもない。『その商品の香り』を作れ」。私は意味が分からなかった。いい香りを作るのが調香師ではないのか、と。
柔軟剤の香りは、瓶の中で完成するのではない。洗い上がった布の上で、干された繊維の隙間で、抱きしめたタオルの体温の中で完成する。シャンプーの香りは、ボトルの中ではなく、湯気の立つ浴室で、濡れた髪をすすぐその瞬間に完成する。使われる場面が処方を決める。同じバラの香りでも、布に置くか湯気に乗せるかで、配合はまるで別物になる。それを知った日、私はムエットの上の香りを信じるのをやめた。
鼻には限界がある。一日に嗅げる数は決まっていて、それを超えると、何を嗅いでも同じになる。コーヒー豆を嗅げば鼻がリセットされるという話があるが、あれは迷信に近いと思う。本当に効くのは、何も置いていない無香の部屋でしばらく座っていることだ。香りを抜くための部屋に、私はずいぶん長い時間いた気がする。
市場には香調の流行がある。ある年は石けんのように清潔な白い花が売れ、ある年は甘いバニラとムスクが棚を占める。流行は服にも音楽にもあるが、香りにもあるのだ。ヒットした柔軟剤を買ってきて、ムエットに移し、分解するように嗅ぐ。何が効いているのか、なぜ皆がこれを「いい匂い」と感じるのか。流行を読むことも、処方の一部だった。
自分の汗も体臭も、この仕事では実験対象になる。柔軟剤を変えた服を着て一日を過ごし、夕方に自分の袖を嗅ぐ。残っているか、変質していないか、汗と混ざってどうなるか。香りは人の体の上で最後の調整をされる。記憶を呼び覚ます香り、というものがあるとよく言われる。ある匂いを嗅いだ瞬間に遠い日の情景がよみがえる、あれだ。私はその力を、設計する側から眺めてきた。
あれから十五年。私はもう、ただ「いい匂い」を嗅ぐことができない。すれ違う柔軟剤の香りに、トップとラストの時間差を聞き取り、流行の香調を見抜き、配合表を頭の中で逆算してしまう。それは少し寂しいことかもしれない。けれど、使われる場面の観察者になったこの十五年が、私をいまの私にしてくれた。無香の部屋の静けさを、私はいまでも、どんな香りより信じている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。