ヤマガコウタ(46歳・木地師24年)
木地師の仕事には、極限への挑戦とでも呼ぶべき領域がある。薄挽き、という。椀の壁を、ぎりぎりまで薄く挽く。茶席で使う器や、酒の盃。手に取った客が「軽い」と漏らす、その軽さに値がつく世界だ。重い椀はいくら木目がよくても安い。コンマ数ミリの壁の薄さが、そのまま値段になる。残酷なほど、わかりやすい仕事なのだと思う。
薄挽きの注文が来ると、私はまず材を選び直す。普段の汁椀なら少々目が粗くても挽けるが、薄挽きは木そのものが薄さに耐えなければならない。木口を見て、年輪の詰んだものを取る。年輪と年輪の間が狭いほど、繊維が密に詰まっていて、薄くしても割れにくい。指で木口をなぞると、詰んだ材は爪に引っかかる感触が細かい。粗い材は、なぞった指がすうっと滑る。
仕上げ挽きで、私は指で厚みを測る。片方の指を椀の内側の壁に当て、もう片方を外に添える。二本で壁を挟んで、その間にある木の厚みを読む。コンマ数ミリの差が、指の腹に段になって伝わってくる。道具で測るのではない。長年やっていると、指が物差しになるのだと思う。薄挽きでは、この指の読みが一ミリの何分の一まで効いてくる。
指だけでは心もとないときは、光を使う。挽いた椀を、裸電球にかざす。薄いところは、木を透かして電球の光が透ける。透ける色は赤い。白木のはずの椀が、光にかざすと、内側からほのかに赤く灯る。その赤の濃淡で、壁の厚みの均一を見るのだ。一周回して、赤がむらなく同じ濃さなら、厚みが揃っている。一か所だけ濃く透ければ、そこが薄すぎる。
薄すぎれば、椀は割れる。一度、私は欲を出して挽きすぎた。指で読んでもう止めればよかったのに、もう一削り、と刃を送った。回る椀が、かさり、と乾いた音を立てて、轆轤の上で砕けた。割れる音というより、薄い氷を踏んだような、軽い音だった。砕けた木地は、もう椀でも木でもない、ただの白い破片だった。長年やっていても、この音は何度聞いても胸に応える。
薄いほど、木は動く。仕上げまでに寝かせて乾かしているとはいえ、薄く挽けば挽くほど、わずかに残った木の動きが歪みになって出る。挽いた直後は真円でも、一晩置けば楕円に寄っていることがある。だから薄挽きの仕上げは、乾燥との読み合いだ。木がどこまで動き終えたか。もう動かないと見極めたところで、最後のひと削りを入れる。早すぎれば歪み、遅すぎれば挽く張りが抜ける。難しい仕事なのかもしれない。
挽き上がった薄挽きの椀を、私は塗師に渡す前に、もう一度光にかざす。白木の椀が、内側から赤く透ける。漆が乗れば、この透けは二度と見られない。塗師の手に渡れば、椀は黒くなり、光を通さなくなる。だから白木のまま光に透けているこの数分が、薄挽きの椀がいちばん美しい時間なのだと、私はひそかに思っている。客はこの姿を知らない。
二十四年、薄挽きも数え切れないほど挽いてきた。砕けた椀の音も、何度も聞いた。それでも光にかざして赤がむらなく灯る一椀ができると、今日もまだ挽けたと思う。結局のところ、薄さの境を見極められるかどうかが、木地師の腕なのだ。指と光で測りながら、私は割れる寸前のその一点を、これからも探していくのだろう。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。