返却本のあいだから、レシートが落ちた日
司書一年目、栞がわりの暮らしの断片

ヤマギシサオリ(34歳・市立図書館司書12年)

市立図書館で司書を十二年続けている。返却カウンターの高さは、立っている利用者の腰のあたりにくる。だからこの仕事をしていると、人の顔より先に、人の手と、その手が差し出す本の背を見ることになる。一日に何百冊も受け取って、検印を確かめ、バーコードを通して、ブックトラックに積んでいく。本はみな、誰かの暮らしを一度くぐってから、また棚へ帰っていく。

司書になったのは二〇一四年、二十二歳の春だった。一年目の私は、返却された本の状態を確かめる「検品」という地味な仕事ばかり任されていた。破れていないか、書き込みはないか、何か挟まっていないか。ページの間に異物が残ったまま棚へ戻すと、次に借りた人が困るからだ。挟まっていたものは、忘れ物箱に入れて一定期間とっておく決まりになっていた。

その日は夏で、午後の遅い時間だった。夏の西日が静かに差し込むカウンターの内側で、私は返却ポストから回収してきた本の山を、一冊ずつめくっていた。料理本が一冊あった。和食の基本、というような題だったと思う。表紙を開いてページを繰っていくと、半ばあたりから、小さな紙片がはらりと落ちた。

スーパーのレシートだった。栞がわりに挟んだまま、返してしまったのだろう。拾い上げて、戻そうとした。そのとき、印字された品目が目に入ってしまった。見るつもりはなかった。けれど、文字というものは、見ようとしなくても読めてしまう。それが、本を扱う人間の因果なのかもしれない。

鶏もも肉、ほうれん草、絹ごし豆腐、卵、食パン、それから、小さな子ども用の歯ブラシ。日付は三日前。時刻は夕方の六時すぎ。レシートはたった一枚の紙なのに、その一枚から、誰かの台所と、夕飯の湯気と、小さな歯を磨く子どもの姿までが、一瞬で立ち上がってしまった。私は知らない誰かの一週間を、開かずに棚に戻すはずの本のあいだから、覗いてしまったのだ。

もちろん、レシートに名前は書かれていない。誰のものかは分からないし、分かってはいけない。私はそれを忘れ物箱に入れた。図書館の利用記録は、誰が何を借りたかを決して外に出さない。それが司書の倫理の根っこにある。だから私は、見たことを、見なかったことにする練習を、その日から始めたのだと思う。

それからの十二年で、私は数えきれないものを本のあいだに見つけてきた。押し花にされた銀杏の葉。クレヨンで描かれた、たぶん家族の絵。病院の診察券(これはすぐに窓口へ届けた)。電車の切符、写真、レシート、手紙の書きかけ。どれも、借りた人がその本と過ごした時間の、証拠のような断片だった。人は本を読みながら、知らずに自分の暮らしの一部を挟み込んで、そのまま忘れていく。

司書は、本を貸し、本を受け取る職業だと思われている。でも本当のところ、私たちが毎日受け取っているのは、本そのものではなく、本に挟まれた他人の暮らしの痕跡なのかもしれない。それを見て、何も言わず、何も覚えていないふりをして、また棚に戻す。見なかったことにする手つきこそが、この仕事の本体なのだと、いまでは思う。

あの夏の日に落ちた一枚のレシートが、私を観察者にした。挟まっていたものたちが、私をいまの私にしてくれた。返却ポストは今日も、誰かの暮らしを挟んだ本を、静かに受け止めている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。