ヤシマフウタ(41歳・選果場オペレーター19年)
農協の研修で、花き市場のせりを見に行った。私は選果場で果物を等級に分けてきた人間で、花のことはわからない。けれど等級を作る私たちと、値段を作る市場とは、農家の一年を数字にするという一点で繋がっている。その繋がりを自分の目で確かめる日だった。
市場の朝は早い。私たちの選果場が動き出すよりずっと前、まだ外が暗いうちに、せり場には花の箱が並んでいた。青果ではなく花だ。バラ、菊、カーネーション、名前のわからない枝もの。冷えた空気のなかに、花の匂いと段ボールの匂いが混じっていた。果物の選果場とは別の世界が、同じ農産物の流通として、そこで動いていた。
せりが始まると、速さに驚いた。私のラインは毎時千五百ケースで流れるが、それでも一個ずつ目で追える速さだ。せりは違った。せり人が一声上げると、買い手の手が一斉に動き、数字が飛び交い、一秒もたたずに一山の値が決まって、次の山に移る。一秒の判断が、休みなく連続していた。あれは果物を裁くより速い。値段というものが、こんな速さで作られているとは思っていなかった。
解説についてくれたのが、カザマツリトキオさん——花市場のせり人を二十七年やっている人だった。買い手の指の動きが符号になっていて、それでいくらと言っているのだと教わった。手やりというらしい。会場の空気を読みながら、誰がいくらまで出すかを一瞬で読んで、声を上げる。カザマツリさんは、せり台から会場全体が見えると言った。「等級はあんたらが作る、値段はうちが作る」。そう一言だけ言った。
意外だったのは、いちばん良いものがいちばん高いとは限らないことだった。その朝は秀品にあたる上物が、思ったより安く落ちた。聞けば、入荷が多くて需要が追いつかない日だったらしい。量と需要が、等級とは別の論理で値段を動かしていた。私たちが手間をかけて秀に分けたものが、相場の都合で安くなる朝がある。等級は品物の値打ちで、相場はその日の都合だ。二つは同じではなかった。
せりの前に、買い手たちが箱の中身を見て回る時間があった。下見というらしい。みな箱を覗き込み、花をつまみ、茎の切り口を見て、首の張りを確かめていた。私も選果のときに同じことをする。けれど見ているところが違った。私は出荷していいかどうかの線を見る。仲卸の人たちは、いくらで売れて、いくら乗せられるかを見ている。同じ一本を見ても、選果の目と仲卸の目は、別のものを見ていた。
休憩のとき、カザマツリさんと立ち話をした。等級の線と、せり値の線の話だ。私が秀と優の境目をどこに引くか。カザマツリさんがこの山をいくらで止めるか。どちらも、農家の一年を数字にする線引きだった。引く場所が一目盛りずれれば、運んできた人の手取りが変わる。仕事はまるで違うのに、線を引くときの手の重さだけが、同じだった。互いに多くは語らず、コーヒーを飲んで、また持ち場に戻った。
研修を終えて選果場に戻った朝、ラインを流れる数字の見え方が、少し変わっていた。私が秀と出した一個の向こうに、いつか誰かがせり台で声を上げる景色が見えるようになった。私の引いた線の先に、もう一本の線がある。等級と相場、二つの線引きが農家を支えているのだ。これからも私は、機械と目の境目で、その最初の一本を引きつづけるのだと思う。今日もシャッターを上げれば、外には軽トラの列が、静かに続いている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。