ヤシロカンナ(51歳・クリーニング工場のアイロン職人29年)
この工場に入ったのは一九九七年、二十二歳のときだった。それから二十九年、私はずっと、誰のものか知らない服にアイロンを当てている。受付の奥の、外からは見えない場所だ。客の顔は見たことがない。流れてくるのは服だけだ。
入った年は、プレス機の係だった。ワイシャツ専用の、上下の鉄板で挟んで蒸気を通す機械で、一日に何百枚と仕上げる。ボタンの位置に襟を合わせ、踏み板を踏むと、蒸気が白く立ち上り、鉄板が下りてくる。三秒。それで一枚。手はほとんど考えなくてよかった。考えなくていいことが、当時の私にはありがたかったように思う。
手アイロンを持たせてもらえたのは、半年後だった。それまでは触らせてもらえなかった。親方は六十近い女の人で、私が早く手アイロンをやりたがるのを、ずっと黙って見ていた。ある朝、ウールのジャケットを一着、私の台に置いて、「やってみ」と言った。私はアイロンを当てた。テカった。肩のところが、てらてらと光ってしまった。
親方は、それを見て怒らなかった。「生地が言うことを聞かないんじゃない。温度が合ってないんだ」とだけ言った。アイロンには温度表示のダイヤルがある。けれど表示と、鉄が実際に持っている熱とは、いつもずれている。温まりきる前と、温まりすぎたあとでは、同じ「中」でも別の鉄だ。表示を信じてはいけない、と教わった。信じるのは、当て布越しに伝わってくる手のほうだ。
シルクは低い。低すぎるくらいでちょうどいい。ウールは中で、必ず当て布を一枚かませる。綿とリネンは高くて、霧を吹いて、ぐっと体重をかけられる。同じ「アイロンを当てる」でも、生地が変われば別の仕事になる。テカリは、その生地が耐えられる温度を、ほんの少し超えたときに出る。繊維の表面が溶けて、平らになって、光を返すようになる。一度テカったウールは、もう戻らない。私が最初に覚えたのは、戻らないものがある、ということだったのかもしれない。
当て布を使うかどうかは、生地に触れて決める。指の腹で表面を撫でて、毛足があるか、織りが詰まっているか、糸に光沢があるか。迷ったら当て布をかませる。かませて損をすることはない。テカらせて損をすることは、取り返しがつかない。半年かけて、私はその判断を手に入れたのだと思う。
工場には、受付から服だけが流れてくる。ハンガーに掛かって、ラインを滑って、私の台の前で止まる。誰が着たかは分からない。けれど服のほうが、勝手に話す。ワイシャツの袖口だけ黄ばんでいれば、机に肘をつく人だ。スーツの右の袖が左より擦り切れていれば、よく書きものをする人だ。ズボンの裾の内側に踏み跡があれば、背の高さに対して丈が長すぎたのだ。私は持ち主の顔を知らないまま、その人がどんなふうに服を着たかだけを、二十九年、読み続けてきた。
今日もワイシャツが流れてくる。プレス機の蒸気が白く立ち上り、ラインのハンガーが静かに揺れている。私はもう、温度のダイヤルをほとんど見ない。当て布越しに伝わってくる手の感覚だけで、この生地が今、何度を求めているかが分かる。生地の声が、私をいまの私にしてくれた。誰のものか知らない服に、今日も私はアイロンを当てている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。