ヨドガワアキ(36歳・競馬場の厩務員14年)
厩務員の朝は早い。日が出る前に厩舎に着いて、最初にやるのは馬房の掃除だ。スコップとフォークを持って、一頭ずつ、敷いてある藁をかき出していく。十四年やってきて、いまでもこの最初の一仕事が、その日の馬の状態を一番よく教えてくれると思っている。
寝藁を見れば、馬の夜が分かる。よく寝た馬の藁は、体の形にぐしゃりと潰れて、真ん中がへこんでいる。横になって、脚を投げ出して、ちゃんと眠った証拠だ。逆に、ほとんど立ったまま朝を迎えた馬の藁は、敷いたときのまま、毛羽立って立っている。馬は立って眠れる動物だが、立ったままの夜が続く馬は、どこか落ち着いていない。藁が、言葉のかわりに教えてくれる。
掃除が終わると飼い葉だ。桶に入れて配り、しばらくして戻る。大事なのは、やった量より、残した量のほうだ。いつも完食する馬が今朝は底に残している、というとき、その馬の体のどこかで何かが起きている。食欲は、馬が嘘をつけない場所だと思う。残った飼い葉の匂いをかいで、量を確かめて、それを毎日頭の中の帳面につけていく。
それから脚元だ。しゃがんで、四本の脚を一本ずつ手のひらで包むように触っていく。確かめているのは熱だ。脚に熱を持つのは、たいてい故障の前触れで、走ったあとでもないのに左の前だけ温かい、というとき、その馬はもう自分では言えない何かを抱えている。指の腹で、昨日との違いを読む。これも、やってきた手が覚えていることで、初めの頃は左右の差すら分からなかった。
2012年、トレセンの厩舎に入った年のことだ。最初の頃、私はどこかで、自分が馬を走らせる側の人間になるのだと思っていた。ある朝、調教師にそれを見透かされたみたいに言われた。「走るのは騎手と調教の仕事だ。お前の仕事は、走れる体で朝を迎えさせること。それだけだ」。それだけだ、と言われた仕事の重さが、分かるまでに何年もかかった。
馬には一頭ずつ性格がある。神経質で、物音のたびに耳を絞る馬。何があっても飼い葉だけは食う図太い馬。新入りを見ると、わざと指を甘噛みして、こいつは押せるかどうかを試してくる馬。引き運動で外に出すと、それぞれの歩き方の癖が出る。歩様を見ているうちに、私と馬は、言葉を使わずに少しずつ心が通じ合っていったのだと思う。
レースの日は、いつもより念入りに手入れをして、送り出す。馬運車に乗っていく後ろ姿を見送るとき、勝ってくれと祈るような気持ちにもなるが、私の手が及ぶのはそこまでだ。そして勝っても負けても、翌朝の馬房は同じようにやってくる。同じように藁をかき出し、同じように熱を見る。勝った馬の馬房だけが特別に輝いている、なんてことはない。たぶん、それがこの仕事のいいところなのだろう。
名札の下がった馬房の前で、その馬の名前を呼ぶ。すると耳が、ぴくりとこちらを向く。顔を上げない馬でも、耳だけは必ずこちらを向く。あの瞬間が、私はいまでも好きだ。世話をしている相手が、ちゃんとこちらを認めている。それが分かる、一日のはじまり。
あれから十四年、私はずっと、馬の夜の観察者をやっている。走る時間ではなく、走らない時間。眠った藁と、減った飼い葉と、脚の熱。誰も見ていない夜の続きを、朝の痕跡から読む仕事だ。馬の夜が、いまの俺を作ってくれたのだと思う。今朝も日が出る前に、私はスコップを持って、最初の馬房の前に立っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。