ヨコイチカ(34歳・屋内プール監視員12年)
壁の時計が十五分の区切りに来ると、控えにいた者が立ち上がる。台までの数歩を歩き、足元の一段下で止まる。私はその気配を背中で聞くが、目は水面に置いたままにする。人間の目は水面に十五分しか持たない。だから十五分で交代する。けれどその交代の数秒が、一日でいちばん危うい。
ホイッスルは渡さない。あれは個人装備で、各自が自分の首から下げている。渡すのは台と、視線だ。下の者が「上がります」と言わずに、ただ足元で止まる。そこで初めて、私たちは一瞬だけ目を合わせる。それから私は決まった文句を口にする。「異常なし、右奥に高齢の方お一人、ゆっくり」。誰がどこにいて、どこに気を配るべきか。それだけを渡す。
受け取った者が台に上がる。私はまだ降りない。台の下に立って、なお水面を見ている。ここからの数秒が、引き継ぎの本体だ。私はまだ右奥のおじいさんを見ている。上の者の目も、いま同じ右奥に行ったはずだ。一拍。私の視線とあの人の視線が、おじいさんの白い水泳帽の一点で重なる。重なったのが分かると、私はそこから目を外して、全体を一度だけなめ、降りる。私の右奥が、あの人の右奥になった。それで台は渡った。
台の上には、各自の水筒を持って上がる。十五分のあいだ一口も飲まない者もいる。私は上がってすぐの一口だけ決めている。乾いた喉で見ていると、いつのまにか息を詰めてしまうからだ。喉を湿らせ、それから端のコースに目を置く。受け取ったばかりの目は、前の人が十五分かけて作った「この面のいつもの感じ」を、まだ持っていない。だから最初の一周は、ことさら端から端をなめる。渡された右奥のおじいさんを、まず探して、見つけて、それから面に目を散らす。
馴れた目は、ゆっくり、休まず、面の上を回る。一周およそ二十秒。新人の目は、まだその速さを知らない。先月、三ヶ月目の子の引き継ぎを下から見ていたとき、その子は左の浅瀬の三人を一度なめて、次に右の飛び込み台に目を奪われ、戻ってきたとき浅瀬を一周飛ばした。十秒、浅瀬に誰の目もなかった。何も起きなかったが、十秒は十秒だ。馴れた目なら、飛び込み台を見ながらでも、浅瀬の三人を視野の端に残しておける。それを残せるようになるのに、私は二年かかった。
先週、私は初めて、新人に渡す側に立った。台の下で目を合わせ、「異常なし、左の浅瀬に小さい子三人、追いかけっこ」と渡した。彼が上がる。私は降りずに、なお浅瀬の三人を見ている。私の視線が彼の視線と、いつ重なるかを待つ。けれど彼の目は、まず台の真下を見て、それから遠い反対側へ飛んだ。浅瀬に来ない。三人はまだ私の目だけが見ている。一秒、二秒。私は降りられない。「見た」を待っているのではなかった。彼の目が浅瀬に着くまで、私がその一点を手放せないだけだった。四秒目に、彼の視線がようやく左の浅瀬に落ちた。三人が、彼の三人になった。私は背中の汗に気づいて、台を降りた。
受け取るときの緊張は、十二年で薄れた。渡すときの緊張を、私はその日初めて知った。自分の十五分は、自分が見ていれば済む。渡す数秒は、相手の目が着くまで、私が見ている一点を、相手が見ているはずだと信じて手放す。信じて手放した瞬間に、もし相手の目がまだ着いていなかったら——その想像が、背中を冷やす。
今日も私は、誰かの右奥を受け取り、誰かに左の浅瀬を渡す。一点が私の目から相手の目へ移るたび、水面のどこかは、二つの目に同時に見られている。台は、誰かが座り、誰かが降り、その数秒だけ二人の目が同じ一点で重なる高さにある。私はその一点を、明日も誰かに渡す。