ヨコイチカ(34歳・屋内プール監視員12年)
屋内プールの監視員を十二年続けている。仕事は十五分か三十分で持ち場を交代する。人間の集中力は、水面に対してそれ以上続かないからだ。座って、見て、笛を持って、交代する。それだけのことを、もう何千回繰り返したか分からない。
監視台は思ったより高い。プールサイドに立つ人の頭より、頭ひとつぶん上に座る。高いのには理由があって、上から見ないと、水の中が見えないのだ。横から見れば水面はきらきらと光って何も見えないが、真上に近い角度からなら、青のグラデーションの底まで透けて見える。監視員はその高さに座らされて、初めて自分が何を見るべきかを知る。
研修で、いちばん最初に教わったことがある。「泳げる人を見るな。静かな人を見ろ」。最初は意味が分からなかった。溺れている人というのは、手を振り回して、大声で助けを呼ぶものだと思っていた。映画でも、ドラマでも、そうだったと思う。けれど教官は言った。本当の溺れは、静かなのだと。
溺れかけた人は、声を出せない。水を飲まないように口を閉じるのに精一杯で、息を吸うことしかできないからだ。手も挙げられない。本能的に、水を押し下げて体を持ち上げようとするから、腕は水面の下で上下するだけで、岸に向かって振られることはない。叫ばない、暴れない、ただ顔だけが水面のあたりで、上を向いている。賑やかなプールの真ん中で、その一点だけが、不自然に静かになる。
初めて監視台に一人で座ったのは、二〇一四年の夏だった。二十二歳、入って数ヶ月。先輩と交代するとき、目を合わせる。言葉はない。「異常なし、引き継ぐ」を、目で渡す。先輩が台を降りて、私の十五分が始まった。あの十五分は、長かった。本当に長かった。子どもたちの歓声、コースロープの揺れ、塩素の匂い。全部が遠くにあって、私はただ、水面の静けさだけを探していた。
笛にも使い分けがある。短く一回は「気づいている」の合図、長く一回は「止まれ」、短く二回は仲間の監視員を呼ぶとき。走る子どもに鳴らすのは短い一回。それで八割は止まる。けれど私が本当に身につけたかったのは、笛を鳴らすことではなく、笛を鳴らさずに済む十五分を、何事もなく終えることのほうだった。
消毒の塩素は、最初の頃ははっきり匂った。喉の奥に張りつくような匂いで、家に帰っても髪から抜けなかった。けれど毎日嗅いでいると、だんだん分からなくなる。いまではプールの匂いを、ほとんど感じない。匂いがしなくなったときに、私はようやく一人前になったのかもしれない。慣れるというのは、そういうことなのだと思う。
あの夏から十二年、私は何も起きない十五分を、何千回も積み重ねてきた。誰かを助け上げた武勇伝のようなものは、ない。私の仕事の成果は、「何も起きなかった」という、数えようのないものだ。何も起きなかった日は、記録には残らない。けれど、起きなかったのではなく、起こさせなかったのだと、私はいまでは思っている。あの長すぎた初めての十五分が、私をいまの私にしてくれた。監視台は今日も、水面より少し高いところにある。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。