半額シールを、初めて貼った日
青果部一年目、値段を疑うと決めるまで

ヨシオカマナ(38歳・スーパー青果部15年)

青果の売場に立って十五年になる。棚の前を一日に何百回も通る。やがて、葉物が何時に元気をなくし、何時に客の手がいちばん多く伸びるか、時計を見なくてもわかるようになった。鮮度というのは、結局のところ時間のことだ。私はずっと、その時間を読んで生きてきた。

夕方になると、売場のいちばん端に見切りのワゴンが出る。今日中に売り切らないと廃棄になる品を集めて、値引きシールを貼っていく台だ。ハンドラベラーという、握ると数字が印字されたシールが一枚出てくる道具を使う。カチャン、と小さな音がして、舌のように赤いシールが出てくる。その音を、私は一年目の夕方に初めて自分の手で鳴らした。

二〇一一年、青果部に配属された年の秋だった。夕方五時、見切りを任された。それまでは先輩がやるのを横で見ているだけだった作業を、初めて一人で。夕方の売場にはオレンジ色の西日が差し込んで、カット野菜のパックが少し誇らしげに光っていた。私はワゴンの前に立ち、カット千切りキャベツのパックを手に取った。

三十パーセント引きのシールを貼った。198円が138円になる。私はそれを棚に戻して、次のパックに移った。ところが、何枚貼っても、客の手は伸びてこなかった。後ろに数人、買い物かごを提げた人が立っているのは気配でわかる。でも、誰も取らない。私はなんとなく、まだ早いのかな、と思った。

先輩が来て、ラベラーの数字を半額に切り替えた。198円が99円になる。私が同じキャベツに半額シールを貼り直して棚に戻した、まさにその瞬間だった。後ろから手が伸びた。一本、二本、三本。さっきまで誰も触らなかったパックが、シールを貼る端から、かごの中に消えていった。同じキャベツである。三十分前に切られた、同じ千切りである。中身は何ひとつ変わっていない。

私はそのとき、手が止まったのを覚えている。シールを貼る前のパックと、貼った後のパックは、同じ物のはずだった。なのに、貼った瞬間に、それは別の商品になっていた。客が買っているのは千切りキャベツではなく、99という数字のほうなのかもしれない、と思った。値段というのは、品物に貼られた値札ではなく、品物と人のあいだに引かれた一本の線なのだ。

それから気づくと、私は売場の定点から客の手を見るようになった。半額シールを待って売場を二周、三周する常連がいる。雨の日は葉物がよく動く。芯温計をレタスに刺して数字を控え、廃棄記録に「葉先傷み」と書き込みながら、頭のどこかではいつも、あの三十分前の手が伸びなかった棚のことを考えていた。三十パーセントでは動かず、半額で動く。その十パーセントや二十パーセントの差の中に、人の手が動くか動かないかの線がある。

あれから十五年。何万枚シールを貼ったか、もう数えていない。値引きとは品物を安くする作業だと思われがちだが、本当は、品物と人のあいだの線を引き直す作業なのだと、いまでは思う。あの夕方のカチャンという音が、私をいまの私にしてくれた。売場の端の見切りワゴンは、今日も夕方五時に静かに出される。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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