ヨシオカマナ(38歳・スーパー青果部15年)
十二月の青果部は、一年でいちばん赤い。クリスマスが近づくと、苺のパックが平台の最前列をぜんぶ占める。冷たいガラス越しの照明に照らされて、赤がきらきらと光っていた。私はその赤を、十五年ずっと、棚の前から見つめてきたのだと思う。
苺には等級がある。大粒で、サイズが揃っていて、ヘタがぴんと立っている物ほど上等とされる。クリスマス前に出すのは、その上の等級だ。ケーキの上に並べたとき、粒の大きさが揃っていないと格好がつかないから、揃った物ばかりを前に出す。パックは、苺のとがった先を上に向けて詰める。潰れないように、向きまで決まっている。
十二月二十三日。私は平台の横の定点に立って、客の手を見ていた。ひとりの女の人が、いちばん大粒のパックを手に取った。裏返して、値札を見た。そして、そっと戻した。手が、戻したのだ。隣の、少し小ぶりで安いパックを取って、かごに入れた。彼女は苺が欲しかったのではない。ケーキにのせる苺が、その日だけ欲しかったのだと思う。
クリスマスの三日間で、その等級の苺はいちばん高い値をつける。発注数も、一年でこの数日のためだけに跳ね上げる。普段の三倍は出る。それでも夕方には空になる棚を見ながら、私は、これはケーキの一部の値段なのだと思っていた。苺そのものではなく、ハレの日にのせるための飾りの値段。
そして、年が明ける。一月四日。私は値札を貼り替えにいく。クリスマスに千円近かった同じ等級のパックが、三割引きの、七百円ほどの札に変わる。中身は何ひとつ変わっていない。同じ産地、同じ等級、同じ向きに詰めた苺だ。変わったのは、カレンダーが一枚めくれたことだけだった。
その日、見覚えのある人がやってきた。十二月二十三日に、大粒のパックをそっと戻した、あの女の人だ。彼女は今度は、いちばん大粒の、揃った等級のパックを、迷いなくかごに入れた。年末には戻した手が、正月明けには伸びた。苺は何も変わっていないのに、彼女の手だけが、季節をまたいで、変わっていた。
苺の産地は、冬のあいだに少しずつ移っていく。栃木から、福岡へ、熊本へ。県の名前がリレーのように移っていくのを、私は箱の印字で知る。けれどその移り変わりも、値段の前では小さなことだった。客が見ているのは産地ではない。値札の数字を見て、手が動くか、動かないかが決まっていた。
正月の苺は、少し寂しい赤をしている、と私はいつも感じてしまう。クリスマスの照明の下では主役だった赤が、松の内を過ぎると、ただの果物の棚に戻っていく。同じ赤なのに、見られ方が違う。値段が、その赤の意味を決めていた。
需要と供給。経済の教科書に書いてある、あの曲線の話。私はそれを、棚の前の手の動きとして、毎年見ているのだと思う。クリスマスに戻した手と、正月に伸びた手。そのあいだに引かれた一本の線を、苺は何も知らないまま、ただ赤く光っている。棚は、町の暮らしのリズムをそのまま映す鏡なのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。