断り文句の「残念ながら」の分布
残念がっているのは誰か

ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)

「残念ながら」という五文字が、日本語の公的な文面でどれほど働いているか、改めて眺めてみると奇妙な気分になる。直近の一ヶ月、私は手元に届いた通知・告知・お詫びの類を手帳に書き写してきた。結婚式の延期連絡、保育園のお遊戯会中止、クレジットカードの審査落ち、マンションのモデルルーム閉場のお知らせ、学会発表の不採択通知、図書館の休館延長、ふるさと納税返礼品の発送遅延。こうして並べると、「残念ながら」は「申し訳ありません」の前座として出てきたり、「今回は見送らせていただきます」の枕詞として出てきたり、時には主文のど真ん中に居座ったりする。

観察していて気づくのは、残念がっている主体がしばしば宙に浮いていることだ。「残念ながらご期待に添えない結果となりました」と書くとき、残念なのは発信者なのか、受信者のはずの私なのか、あるいは「結果」という無人格の出来事なのか。文法的には副詞句なので主語を要求しない。この無主語性こそがこの語の働きどころで、誰が残念なのかを曖昧にしたまま、場に「残念さ」だけを立ち上げることができる。

用例を並べて比べる。住宅販売の文面では「残念ながら当該住戸は成約済みとなりました」と出てくる。ここでの残念さは、売れたこと自体には向かず、売れてしまって買えなかった顧客の側に先回りして貼り付けられている。告知者は売れて嬉しいはずなので、「残念ながら」は顧客代弁の装いをまとった挨拶として機能している。一方、大学入試の不合格通知では「残念ながら合格とはなりませんでした」と書かれる。ここでの残念さは、明らかに受験生側の感情を引き受ける構造で、発信者は中立を装う。どちらも発信者の本心を問わない点で共通している。

お詫び系の用法になると色合いが変わる。「残念ながら部品の供給が追いつかず、発送を延期させていただきます」。この場合、残念なのは発信者のほうに重心が寄る。続く「申し訳ありません」が残念さの主語を事後的に引き受けるためである。つまり「残念ながら」単体では主語が空欄のまま流通し、後続の語によって事後的に主語が定まる仕組みになっている。

さらに興味深いのは、残念さの対象が事実そのものではなく、事実を告げねばならない構造に向かう場合だ。学会の不採択通知にある「残念ながら、今回は採択に至りませんでした」という文は、採択されなかった事実よりも、その事実を通知せねばならない査読側の心苦しさを漂わせる。残念の矢印は、出来事ではなく伝達行為のほうに向いている。告知の痛みを和らげるクッション材としての「残念ながら」である。

マンションの折込チラシの裏面で一度、「残念ながら完売いたしました、誠にありがとうございました」という一文を見たことがある。完売は売主にとって祝事のはずだが、ここでは買えなかった潜在顧客への気配りとして「残念ながら」が挿入されている。感謝と残念さを一文に同居させるこの構文は、日本語の商業文の興味深い発明だと感じる。

この語は、発信者の感情を表明する装置ではなく、場に漂う気まずさを言語化して分配する装置である。誰が残念かを決めない、決めないことを責めない、という共同の暗黙了解の上に成り立っている。分布を見ていくと、「残念ながら」は日本語の業務文書における感情の緩衝材として、極めて精密に配置されていることが分かる。

——補記:第二稿で書き直しました。

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