アクツトモヤ(54歳・手打ち蕎麦屋30年)
毎朝、同じ時間に蕎麦を打つ。粉と水が出会う最初の工程を、水回しという。何ccと量らない。水差しを傾け、木鉢の粉に半分だけ差して、残りは手の決めるぶんに取っておく。三十年、ずっとそうしてきた。
前夜から沸かしっぱなしの釜が、厨房に湯気を残している。タイルは湿って、足の裏が冷たい。蕎麦殻の匂いが低くたまった、その中で木鉢の前に立つ。一九九六年、二十四歳で親方の店に入った日も、同じ匂いがした。
加水率は何パーセントですか。そう訊いた私に、親方は手を止めて言った。「レシピを書くな。手で覚えろ。今日の粉は今日しかない」。同じ農家の、同じ蕎麦粉でも、挽きたては乾いて水を吸い、一週間置けば湿ってはじく。鮮度と、その日の湿度。数字にした瞬間、それは昨日の答えになる。
水回しは、立てた指で粉に水を散らし、粒の一つ一つに水をまとわせていく。最初の半分を差して、両手で粉をすくい、軽く握る。握って、ひらく。粉がまだ手のひらに残って白く乾いていれば、足りない。指の股に粉が入り込んで重く感じれば、もう差すのをやめる。あの朝の粉は、握った拳がひらくときにほろりと割れた。あと一差し、と手が言った。湿度計ではなく、その割れ方が言った。
差し続けていると、ばらばらだった粒が互いを探し始める。黄色い砂が、湿った音に変わる瞬間がある。さらりという乾いた擦れが、ぐ、と粘りのある低い音に落ちる。耳というより、指の腹がその落ち際を先に拾う。そぼろがひとまとまりになろうとする、その変わり目だ。目はいつも、手に遅れて気づく。
こねて、延して、切る。延し棒に乗せた肩の重さで生地の角を出し、駒板を送る左手と包丁を落とす右手で太さを刻む。奥では釜が一日中沸いている。湯は減れば足し、白く濁ってきたら替える。蕎麦の湯は、澄んだまま使い切れることはない。濁りの色で、今日もう何人手繰ったかがわかる。
開店前、親方は一口だけその日の蕎麦を手繰った。黙って噛んで、黙って頷く。たまに、何も言わずにもう一口たぐる日があった。加水が決まった日だ。何年もして、私が打った蕎麦を親方がもう一口たぐった朝、私はようやく、半分を残して差すという意味がわかった気がした。気がした、ではない。わかった。
三十年で量った水はない。覚えているのは、握った拳のほろりと割れる感触のほうだ。乾いた朝の、重い手のひら。今日の粉も、握ればまた何か言う。私は半分を差して、残りを手に取っておく。