核は強い。動くものは二度数えと数え漏れで合わない、だから収容して一頭ずつ箱に入れるように数える、という手つき。収容の順番にそのまま群れの序列が出て、点呼表の印が序列の写しになる、という発見。そして一頭足りない夜、数え直すまでの数分の静けさ。この三点だけで一本立つ。問題は、数で語ると決めた人物に、書き手が数を語らせきれていないことだ。デビュー作で「八十が二百二十になった朝」という一行を立てた書き手が、二作目では肝心の数字を空欄のままにしている。数える人のエッセイは、数が曖昧だと全部が曖昧に見える。
「夕暮れの園内に閉園を告げる音楽が静かに流れ、最後の客が出口へ消えると、」
夕暮れ、音楽、静けさ。「叙情的な閉園」を安く調達する三点セットで、しかもデビュー作の冒頭「夕暮れの園内に動物たちの声が静かに響くころ」をほぼそのまま再利用している。この語り手にとって閉園とは、音楽ではなく、点呼が始まる合図のはずです。出てくるべきは旋律ではなく、収容扉の鍵の冷たさか、チェック表のまだ白い升目か、最初に動き出す一頭の名前のはず。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型です。
「印が、頭数に足りない。一頭、足りない。」
致命的です。残餌を「八十が二百二十」とグラムで語った人物が、点呼では具体的な頭数を一度も出していない。何頭の群れで、印はいくつ並んでいて、足りないのは何分の一なのか。十八頭のうちの一頭と、四頭のうちの一頭では、静けさの重さがまるで違う。数える人の不安は、数で書かれなければ存在しません。「一頭足りない」は感情の説明であって、観察ではない。
「彼らがどうして渋るのか、本当のところはわからないのかもしれない。」
この語り手は、わからない相手を数で読むと決めた人間です。デビュー作で「可愛がるな、目が曇る」と教わり、想像を断った。その人物が「わからないのかもしれない」と二重に留保するのは、怯えではなく、断言を避ける作者の保険に見える。数える人なら、わからない内面の代わりに、わかる事実を出すはずです——その個体だけ収容に毎晩何分よけいにかかるか、という数を。
「渋り方にも個性があって、ある一頭は入ると見せかけて振り返り、別の一頭はただ動かない。」
惜しい。ここはこのエッセイで二番目に良い素材なのに、「振り返る」「動かない」で足りています。実際に毎晩見ている人間なら、もっと固有のものが出るはず——扉の桟をいちど前足で叩いてから戻る、とか、決まって同じ岩の同じ窪みに座る、とか。固有名詞のない個性は、個性ではなく分類です。観察ではなく要約になっている。
「点呼とは、動物たちとの一日の終わりの、静かな挨拶なのだと、いまでは思う。」
デビュー作の「本当は、残った分を読む仕事なのだと、いまでは思う」と同じ判子を、また末尾に押している。「点呼=挨拶」という比喩は、数が合うか合わないかで帰れるか帰れないかが決まる、というこのエッセイの即物的な緊張を、生ぬるい情緒に薄めてしまう。挨拶ではない。点呼は照合です。主題を主題文として書いたら、それはエッセイではなく要約になる。引き継ぎ簿に「異状なし」と書く動作で、もう全部言えている。
「あの渋り屋が、岩の陰でこちらを見ているような気がする。」
いちばん静かであるべき数分に、語り手が「見られているような気がする」と感傷を差し込んでいる。これは「可愛がるな、目が曇る」と教わった人物の目ではない。曇った目には升目が見えない。ここで書くべきは視線の幻ではなく、白いままの升目そのものと、消灯できないこと、引き継ぎ簿に異状なしとまだ書けないこと——つまり、合わないあいだ進めない手続きの停止です。静けさは事実で書ける。
「客のいない時間の彼らは、昼間客の前で見せる顔とはまるで違う。閉園後の動物のほうが、ずっと素なのだ。」
言っていることは正しいが、これはデビュー作の「本当のことは、客のいない時間に出る」の焼き直しで、しかも今回は何の具体で裏づけてもいない。「素」を主張する文の隣に、素の証拠が一つもない。昼は寝ていた個体が点呼では先頭で奥を取る、収容の最中だけ鳴き交わす——観察を一つ置けば、「素なのだ」と書く必要は消えます。
残すべきは三つ。二度数えと数え漏れで動くものは合わない、という数え方の手つき。収容の順番が群れの序列の写しになる、という発見。そして一頭足りない夜の、数え直すまでの数分。削るべきは、夕暮れの音楽、留保語尾、末尾の「挨拶」解説、岩陰の視線の感傷。改稿では、まず群れの頭数を数字で置くこと(「十八」でも「四」でもいい、合うべき数を読者に持たせる)。渋り屋には固有の一動作を一つだけ与えること。そして数分の静けさは、白い升目・消灯できないこと・引き継ぎ簿の空欄という、進まない手続きで書くこと。意味は手続きが運ぶ。挨拶が運ぶのではない。