着眼点は悪くない。欠けている語彙から時代の生活構造を逆照射する、という企図自体には十分な推進力がある。ただし現稿は、その面白さを自分で平板化している。各節が同じ論理と同じ比喩で進み、しかも具体的な作品の手触りに降りないため、「よく整った見立て」の域を出ていない。硬いことを言えば、観察より先に結論のフォーマットが立ってしまっている。
「Wi-Fiが無い。」「LINEも無い。」「コンビニが無い。」「リモートワークも無い。」「SDGsも無い。」「共感疲れも無い。」
一節目で型が完全に見えます。以後は名詞を差し替えて同じ三段論法を反復しているだけなので、読者は納得する前に先を読めてしまう。少なくとも三つ目の節で、予想を外す反例か、自説が揺らぐ具体例を入れないと、調査ではなく整然とした目次です。
「欠けている語が棚のように並んで見える。」「空白は遅れではない。まだ配線されていない場所の静けさである。」
こういう“きれいに言い切った抽象比喩”が、いかにも生成文っぽい。意味が深まるというより、深そうな膜が一枚かかるだけです。比喩を置くなら一回で十分で、二回目以降は観察の不足を化粧で埋めているように見えます。
「ある種の沈着」「まだ薄い」「ようなものが残る」「転化しにくく」「別の名で散っていく」
逃げ道の多い言い回しが続き、断言の責任をほとんど負っていません。慎重というより、反論を先回りして薄めている印象です。ここまで観念で押すなら、半分は断言でいいし、断言できない半分は具体例で支えるべきです。
「だから当時の私室は、今よりも物理に忠実で、戸と机と灯りが支配する。」
その戸は引き戸なのか板戸なのか、机は文机なのか学校机なのか、灯りは行灯なのか裸電球なのか。こういうところを見ていないから、“私室”が文章の中で立ちません。青空文庫を持ち出すなら、誰のどの場面でその室内を見たのかを逃げずに出すべきです。
「明治から昭和前期までの文章は、ある種の沈着で満ちている」「近代日本語の親密さは、面会か書簡に宿っていた」
期間も対象も広すぎます。明治と昭和前期では都市経験もメディア環境も文体もかなり違うのに、ひとつの“近代日本語”に畳んでしまっている。論を立てるための圧縮が、対象の差異を先に殺しています。
「接続の本数」「見えない回線」「届くか届かぬか」「受信面積」「配線されていない場所」
通信・配線の比喩が多すぎて、後半は文章自体がそのメタファーに支配されています。本来はWi-FiやLINEの節だけで効くはずの装置が、全節を同じ色に染めてしまった。象徴は効かせるほど減らすものです。
「商店は顔を持ち、買い物は微量の対人を含んでいた。」「文章は抽象度の低い固有名で動き、統一ロゴのない切迫があちこちに刺さる。」
この手の文は、近代批評でも地方論でも消費社会論でもそのまま使えてしまいます。つまり、このエッセイ固有の観察ではない。青空文庫でなければ言えない一文、あなたの読書履歴でしか出ない一文がまだ無い。
「空白は遅れではない。まだ配線されていない場所の静けさである。」
締めとしてはうまく見えますが、論の角を自分で丸めています。「遅れではない」と先に赦してしまうので、読後に残るのは発見ではなく配慮です。結びは免罪符ではなく、もっと狭く、もっと具体的に、不快な余韻を残したほうが強い。
残すべき核は、「語彙の欠如ではなく、生活の継ぎ目の未発達が文体を作る」という見立てです。ここは十分に強い。ただし今のままでは、現代語を見本市のように並べて時代差を説明しているだけなので、改稿では項目を半分に減らし、代わりに具体的な作品・場面・語法を入れるべきです。一本の節で本当に読者を刺せる観察を作り、その後にだけ抽象化する。順番を逆にしないことです。