ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)
青空文庫で目立つのは、ない単語より、ない仕組みだ。現代語を見本市のように並べるより、作品の場面に入ったほうが早い。明治三十年代の路地と昭和初年のホテルの廊下は、同じ「昔」ではない。その差が、文体の息づかいを決めている。
樋口一葉『たけくらべ』の町は、格子と見世の灯でできている。誰がどの店先に立ったかまで町内に残るつくりだ。買い物は品物だけで終わらず、視線の往復を連れてくる。夏目漱石『それから』では、手紙が文机の抽斗に数日滞留する。封を切る、しまい直す、返書を延ばして外へ出る。その手順が感情の揺れを全部見せる。既読の印はないが、返事の遅速は十分に事件である。待つ時間は余白ではない。関係そのものだ。
ただし、ここで「昔の文章は静かだ」と言い切ると外す。芥川龍之介『歯車』まで来ると、ホテルの廊下、広告灯、走り抜ける車が神経を削る。昭和初年の都市文はもう落ち着いていない。近代日本語は一枚岩ではない。 連絡の経路が少ない時期と、刺激が多すぎて視線の置き場がなくなる時期が、青空文庫の中ですでに割れている。
だから、欠けて見える現代語を「まだ無かった」で済ませるのは雑だ。たとえば二十四時間営業の店がない時代には、閉店の時刻が文章の骨組みになる。林芙美子『放浪記』の買い物は、財布の薄さと売り切れと店番の顔つきが一緒に来る。夜更けに電球と菓子と振込が同じ棚へ並ぶ平板さはない。そのかわり、戸の閉まった店の前で立ち止まる足、借りを頼む声の調子、明日まで待つしかない腹の減りが残る。生活の継ぎ目は、機能より先に人の顔へ触れていた。
青空文庫を読んでいて引っかかるのは、語彙の不足ではなく場面の密度である。返信は通知欄ではなく抽斗にたまる。疲れも便利な総称になる前に、姿勢や足どりとして出てくる。そこを「昔はゆっくりしていた」と丸めた瞬間、作品の手つきは死ぬ。古い文章を支えているのは抽象名詞ではない。板戸の重さと、店先で名を呼ばれる狭さだ。