青空文庫に無いものカタログ
明治〜昭和前期に存在しなかった現代的主題

ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)

青空文庫を歩くと、欠けている語が棚のように並んで見える。欠けているのに、輪郭だけははっきりある。Wi-Fi、LINE、SDGs、コンビニ、リモートワーク、共感疲れ。語が無いというより、語を必要とする生活の継ぎ目がまだ育っていない。明治から昭和前期までの文章は、ある種の沈着で満ちているが、その沈着は気質ではなく、接続の本数が少ない時代の手触りでできている。

Wi-Fiが無い。電波はあっても、家庭の空気を情報の通り道として扱う発想がまだ薄い。部屋とは、読書、団欒、療養、内職のための場所であり、見えない回線が壁を透かして家族の外へつながる場ではなかった。だから当時の私室は、今よりも物理に忠実で、戸と机と灯りが支配する。接続は訪問か郵便で起こり、切断もまた明確だった。圏外という曖昧な宙ぶらりんより、届くか届かぬかの二択が文章の歩幅を決めていた。

LINEも無い。手紙、葉書、 telegram はあるのに、既読の圧力を受け持つ小さな窓がない。返信の遅さが人格診断に転化しにくく、用件と情緒が一つの吹き出しに折り畳まれない。近代日本語の親密さは、面会か書簡に宿っていたので、親しさは時間を食う技術だった。現代の会話は、文そのものより通知の頻度で熱量を測るが、当時は待つ時間が関係の一部であり、待機は性格検査ではなく生活の当然として置かれていた。

コンビニが無い。夜中でも明るい小売の標準装備が無いということは、欠品と閉店が一日の輪郭を作っていたということだ。欲しいものが手に入らない時間帯があり、町には不便ではなく節度のようなものが残る。便利さの不足ではなく、供給の密度がまだ都市の血管になっていない。ついで買いという散文的な快楽、公共料金の支払いと菓子パンが同じ棚で出会う混線、その生活の平坦さがまだ無い。商店は顔を持ち、買い物は微量の対人を含んでいた。

リモートワークも無い。家で働く人はいても、それは制度化された勤務形態ではなく、内職、執筆、家業の延長として記述される。勤務先と住居のあいだにある通勤という摩擦が、社会人の輪郭を強く描いていた時代である。出社の反対語としての在宅勤務が無いので、仕事の切り替え不全も別の名で散っていく。画面越しの会議で疲れる、背景を整える、通信が不安定になる、その細部がないぶん、労働はもっと露骨に身体と場所に縫い留められていた。

SDGsも無い。資源、衛生、貧困、児童、植林にかかわる記述は多いのに、それらを地球規模の目標一覧として束ねる言葉が無い。項目化された善意が存在しないので、問題はいつも局地的で、川はその村の川として濁り、飢えはその家の食卓として現れる。世界を同じ書式で心配する癖が、まだ薄いのである。だからこそ文章は抽象度の低い固有名で動き、統一ロゴのない切迫があちこちに刺さる。

共感疲れも無い。疲れはある。心痛も煩悶もある。だが、他者の感情に連続接触しすぎて摩耗する状態を、一つの生活語として回収する器がまだない。新聞や小説は広く読まれても、個人の悲報が一日に何十件も携帯端末へ滑り込む環境ではなかった。現代人は感情の配信面に住んでいるが、当時の読み手はもっと限定された入口から他人の不幸に触れた。無い語を拾うたび、近代の日本語が冷たいのではなく、受信面積の設計が違っていたことが見えてくる。空白は遅れではない。まだ配線されていない場所の静けさである。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。