アリムラサキ(27歳・コールセンターオペレーター5年)
「確認いたしますので、少々お待ちください」。言い終わる前に、親指はもうボタンの上にある。保留ボタンは♯の下、見ずに押せる。押すと向こうが消える。お客様の声も、後ろの音も。私の耳に残るのは自分の息だけだ。後処理画面の右上で、保留時間のカウンタが0秒から動き出す。この秒は、あとでAHTに全部足される。
保留中、私は声を出さない。在庫システムに品番を打ち、結果を待ち、出なければSVのいる島へ手を上げる。手のひらをこちらに向けて上げるのが「来て」、指二本が「在庫」。SVが屈んで耳を寄せ、私は口だけ動かす。声を出さないのは、入って二年目の先輩が、保留中に「この客しつこいな」と漏らしたのが届いてクレームになり、その日のうちに別の階へ移ったのを見たからだ。保留は、消音ではない。漏れる。だから口だけ動かす。
お客様の耳には保留音が流れている。私には流れない。研修の最終日に一度だけ、自分の携帯から代表番号にかけて、保留にされる側を聴いた。八秒で同じ四小節が頭に戻る、ピアノの短い曲だった。長調だったと思う。曲名は教わらなかった。五年経って、あの八小節の記憶はもう薄れて、ただ「短くて、すぐ最初に戻る曲」とだけ覚えている。私が一日に何百回もお客様に聴かせている曲を、私はもう正確には思い出せない。
戻る前に、半呼吸ぶん息を吸う。ボタンを離して、最初に言うのは「お待たせいたしました」。この六文字は、カウンタの数字で言い方が変わる。30秒なら、切れ目なく続けて、すぐ用件に入る。180秒のあとは別の挨拶だ。語尾が下がり、頭が一度沈む。同じ六文字が、口の中で別の重さになる。30と180は、ちがう言葉だ。
解除した一瞬、ときどき向こうの生活が漏れる。お客様は保留のあいだ、私がいないと思って暮らしに戻っている。テレビ、誰かを呼ぶ声、犬。私の「お待たせいたしました」が届くまでのコンマ何秒に、その音が一度だけ入ってくる。「あ、はい」と受話器に戻られると、音はまた遠ざかる。私が聴いたことに、お客様は気づかない。
カウンタが172秒まで伸びた通話があった。在庫が出ず、SVを二度呼んだ。解除して「お待たせいたしました」と言ったその瞬間、受話器の奥で子どもが「ママ、できた!」と叫んだ。お客様は私にではなく子どもに「はい、ごめんね、ちょっと待ってね」と言い、それから「すみません、お待たせして」と私に向き直った。私はその172秒、この人の台所を止めていた。在庫を確認していたつもりで、その人の三十秒を、三分を、預かっていた。
いま、また親指がボタンに乗っている。これから押す保留が何秒になるか、私には分からない。30秒で戻れるのか、180秒になるのか。その数字を、私はあとで自分のAHTに足される。けれど同じ数字を、向こうではお客様が、止まった台所のなかで数えている。二つの時計のどちらが先に動き出すのか、私はまだ知らない。「少々お待ちください」と、私は言う。