電池交換の、列(第二稿)
十分で終わる作業の中で、私が見ているもの

アシヤノゾミ(33歳・時計修理技能士11年)

店頭の仕事の九割は、機械式の修理ではない。クォーツの、電池交換だ。一本につき十分。机の引き出しには、裏蓋オープナーがこじ開け式、四点ねじ用、六点ねじ用と分かれて並んでいる。差し出された時計の縁をまず見て、どれを取るかを決める。手は先に伸びている。

裏蓋を開けると、パッキンが座っている。ゴムの輪だ。爪の先で押す。弾力が返ってくれば生きている。潰れて返ってこなければ、シリコングリスを米粒の十分の一だけ取って、溝に薄く引く。新品があれば替える。ここを飛ばして電池だけ替えると、次の梅雨に湿気が入って、半年後にまた来る。来たときには、もう電池交換では済まない。

端子の周りに白い粉が吹いていることがある。液漏れだ。切れた電池を何年も入れたままにすると、こうなる。粉を払い、端子をペン型のブラシで磨き、漏れが基板の足元まで届いているかを目で追う。届いていれば、その場で言う。「これは電池では直りません」。届いていなければ、何も言わずに新しい電池を入れる。

「ついでに、見てもらえます?」。カウンターで一日に何度か出る言葉だ。最近少し遅れる、たまに止まる、ガラスが内側から曇る。電池交換に来た客が、ついでのように差し出してくる。裏蓋は、もう開いている。遅れる時計の中はたいてい、ローターの軸に綿埃が一本巻きついている。その一本を、ピンセットで取る。

千円の時計の裏蓋は、薄くて反っている。一度、こじ開け式のそれにオープナーの刃を当てたとき、表面が硬くて刃が滑り、心臓が縮んだ。傷をつけずに、もう一度、爪の角度を変えて押し込んだ。三十万の自動巻きの裏蓋を開けるときと、同じ秒数だけ手を止めた。安い時計だから速く済ませる、ということは、私の机では起きない。

小学生の男の子が、一人で来たことがある。子ども用の腕時計で、裏蓋の中央に小さな恐竜が型押しされていた。電池はLR41。「自分で持ってきた」と、訊いてもいないのに言った。私は大人の時計と同じ手順で裏蓋を開け、ピンセットで電池をつまみ、向きを確かめて入れた。秒針が動き出すのを、その子は身を乗り出して見ていた。釣りはこの子に渡してください、と母親に言われていたので、百二十円を、その子の手のひらに置いた。

ソーラー時計は、電池ではなく二次電池を積んでいる。光で充電して動く。これも十年ほどで弱る。先週開けた一本は、二〇一二年頃の型で、同じ二次電池がもう廃番だった。互換品を調べ、容量と端子の形が合うものを取り寄せた。中身は替わっても、文字盤に光を当てれば秒針が動き出すところは、変わらない。

三年に一度、同じ時計を持ってくる人がいる。銀色の角型で、六時側のラグだけが、机に置く癖のせいか、いつも先に光っている。前回より、ベルトの四つ目の穴がいちばん深く伸びていた。手首が少し痩せたのだと思う——いや、痩せた。本人は自分の時計の傷を覚えていない。私は覚えている。この一本がどう歳をとってきたかを知っているのは、持ち主と、私だけだ。次の交換は三年後。そのときも、六時側のラグは、先に光っているはずだ。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。