編集部メモ
本ページは、『どっちでもいい、と言われると』v1に対する辛口レビューと、v2への改善方針を記録するものである。横山研の生成エッセイは「下書き→辛口レビュー→書き直し」の三稿を残す方針を取っている。
v1は約2200字。アヤのことばのメモシリーズの第一作であり、以後 #2「考えとく」、#3「やっぱり」と続いていく。三作を通して読むと、第一作の段階で、もう、シリーズ全体の反復テンプレが固まりかけていることが見える。本レビューは、単独作の問題と、三作通しての反復、両方を扱う。以下、十項目で論じる。
v1は読める。読めるけれど、読めすぎる。短い「どっちでもいい」の四音を、ミユとの中庭、母との夕飯、英語の I don't mind、ミユとの帰り道、改札の前、と五場面で展開する構成は、教科書的に整っている。整いすぎている。
核となる問題は、「ミユ→母→英語→ミユ→改札」というシークエンスが、思考の流れではなく、配置の図式になっていることである。アヤが「同じ四音の中に、いくつかの中身が、畳み込まれている」と気づくのは構わない。問題は、その気づきを補強するために、ミユ・母・英語と、三方向から事例を取り出す手つきが、機械的に整いすぎていることである。
もうひとつの問題は、結語の「納得は、まだ、していない。していないまま、玄関に、着いた」が、シリーズ本編 trolley-09 の終結句と響き合いつつ、決め台詞として浮きすぎていること。アヤの内省を「未着地」で閉じるのは、一度なら誠実だが、三作続けて同じ閉じ方をすると、誠実さがフォーマットになる。
中庭のベンチでミユに「どっちでもいい」を引っ込める→夕飯で母との「なんでもいい」のやりとり→ジョーンズ先生に I don't mind を聞く→金曜の帰り道でミユに再話→改札の前で別れる。
判定:人物配置が機械的に均等。ミユ(親友・横)、母(家族・縦)、英語の先生(学校・斜め)と、三方向から事例を取り出す配置は、エッセイの構造として安定しすぎている。安定したぶん、書き手が場面選択の重力に逆らっていない。アヤがその一週間に体験することは、もっと偏っていてよい。ミユだけ、または母だけで、四音の重さを引き受ける場面があってもよかった。
さらにこの「ミユ→母→(教師)→ミユ→改札」のシークエンスは、続く #2「考えとく」、#3「やっぱり」でも基本骨格として反復される。第一作で骨格が固まり、以後の作品でその骨格を踏襲してしまう、という連鎖の起点が、ここにある。
v2の改善:三方向均等配置を崩す。ミユと母を両方出すのをやめ、どちらか一人に絞る。あるいは、ミユでも母でもない第三者(クラスメイト、店員、年少者)を入れて、シリーズの人物配置の癖を破る。
ミユの中で、購買の踊り場の希望が、ちいさく、削れる、ような気がする。〔……〕削れる、というのは、結果には、出ない。〔……〕結果に出ない削れを、私は、選びたくなかった。〔……〕選び直された希望は、削れない、と、私は、思っている。
判定:「削れる」「削れ」「削れない」の動詞性を、一場面で四回反復している。これはアヤの内省の中核語として置かれているのだが、置かれかたが強すぎて、「削れる」を出した時点で、エッセイの結論が予告される。さらにこの「削れる」は #2「考えとく」でも「削れる」「ゼロにする」として再登場し、シリーズの反復キメ語になっていく。
「削れる」という動詞は、選択の重みを、計量可能な「量の損失」として表象する語である。義務論者のアヤが、選択の不可逆性を「結果に出ない損失」として捉えるのは整合的だが、その整合性を語が一手に背負いすぎている。
v2の改善:「削れる」を全廃。アヤが感じている「結果に出ない目減り」を、別の動詞・別の比喩で立ち上げる。あるいは、動詞で名指さず、ミユの動作・表情・沈黙の具体だけで残す。
畳み込まれている。〔……〕同じ四音の中に、たぶん、いくつかの、ちがう中身が、畳み込まれている。差がない場合、決めてもらいたい場合、面倒な場合、希望を隠している場合、安心を置きたい場合。
判定:「畳み込まれている」中身を、五項目の列挙で取り出している。これは azuma-otsukare-critique.html で指摘した「レイヤーの bullet 列挙」の親戚である。bullet マーカーは使われていないが、読点で区切った五項目の列挙は、機能としては bullet と同じ。アヤがこの五項目をこの順番で頭の中で取り出している、という描写は、人物造形として無理がある。
さらに「いくつかの中身が、畳み込まれている」という言い回しは、#2「考えとく」でもほぼ同じ構文で再使用される。シリーズの反復語彙。
v2の改善:列挙を撤去。「畳み込まれている」というメタ表現も避ける。アヤが具体的にどの場面で、どの四音を出したか、その一つの場面の手触りに留まる。網羅をやめる。
「私は、気にしません」と訳すと、なんだか、冷たい。けれど、英語の I don't mind は、冷たくは、なかった。〔……〕mind は、心が、傾くこと。don't mind は、心が、傾かないこと。
判定:英訳セクションが、東のシリーズ番外編 azuma-otsukare の「お疲れ→英語で何と言うか」と同型の構造になっている。日本語の短い言葉を取り出して、英訳できるかを検討し、英語との比較で日本語の特異性を浮かび上がらせる、という型。シリーズ全体で見ると、「ことばのメモ」というジャンル自体がこの型に依存している。
個別の論じ方も問題。「mind は、心が、傾くこと」は、語源的には正しくても、ジョーンズ先生が高校生に説明する語り口としては、整いすぎている。授業の中で、その場で、こんなにきれいに分節される説明はない。
また、この英訳セクションは #2「考えとく」では I'll think about it / Maybe later に、#3「やっぱり」では after all / I knew it に、形を変えて反復される。三作通しての英訳ペア構造の癖。
v2の改善:英訳セクションそのものを撤去するか、撤去しない場合は別の角度から(例:英語に訳そうとして失敗する、訳した瞬間に何かを失う、英語にする前に止める)。ジョーンズ先生に「教えてもらう」構造をやめる。
「アヤが決めると、私、安心するから」〔……〕安心する、というのは、私が、考えていなかった。決めてもらうこと自体が、相手の中に、安心を、置く。
判定:ミユが、アヤの内省を別角度から再構成するセリフを発する、という構造。これは #2「考えとく」のミユ「アヤは、私の言葉、私より、長く、持ってる」、#3「やっぱり」の母「アヤ、やっぱり、お父さんに似てるね」と同型。三作とも、第三者がアヤを「外側から名指しなおす」セリフを置き、それを受けてアヤが内省を深める、という展開を取る。
この型は、書き手にとって便利である。アヤ一人の内省だけでは進まない深まりを、他者の口を借りて生成できる。けれど便利すぎる。便利な道具は、繰り返すと癖になる。アヤの自己認識が、いつも他者のセリフによってアップグレードされる、という構造は、シリーズの動きを単調にする。
v2の改善:他者の再構成セリフを撤去。アヤが、他者のセリフなしで、自分で気づくか、気づかないままで終わる。または、他者は出すが、その他者は何も気の利いたことを言わない(沈黙、別の話題への横滑り、誤解)。
納得は、まだ、していない。していないまま、玄関に、着いた。
判定:「納得していない」で閉じる結語は、trolley-09「火曜の三限、もう一度」の終結句「私は、まだ、納得が、いっていない。いっていないまま、椅子に、座っている」の系譜を継いでいる。シリーズ本編からの正統な継承であり、それ自体は悪くない。
問題は、これが #1「どっちでもいい」、#2「考えとく」(「納得は、まだ、していない」)、#3「やっぱり」(ノートに書いた「やっぱり」を消さないまま本のページをめくる)と、形を変えながら三作通して反復されることである。「未着地で閉じる」が、シリーズの定型句になりかけている。trolley 本編で重みのあった「未着地」が、ことばのメモシリーズで連打されると、未着地そのものが安全運転の手つきに見えてくる。
さらに「玄関に、着いた」という空間的な閉じ方も、#2 で完全に同じ結語が反復される(「玄関に、着いた」)。同じ結語の同じ場所での反復。
v2の改善:「納得は、まだ、していない」を撤去。改札の前・玄関、というシリーズ定型の「閉じる場所」も避ける。別の場所、別の動作、別の音で閉じる。決めない、ではなく、決まらないまま、別の何かが始まる、という閉じ方も検討。
判定:v1全六場面のうち、外的事実(誰が・どこで・何をした)に費やされた分量と、アヤの内省(思考・推論・分析)に費やされた分量を比べると、内省が圧倒的に多い。お弁当の玉子焼きを箸で半分に切る、という外的動作が一回出てくるだけで、ベンチの座り方、ミユの今日の髪、空の色、風の匂い、といった身体的な細部はほとんど書かれていない。
これは義務論者アヤの「考えてしまう」性格を表現するための選択ではあるが、選択が一方的すぎる。考える人を書くのに、考えるところだけ書く、というのは、書く側がアヤと同化しすぎている証拠でもある。
v2の改善:身体・環境の細部を一場面につき少なくとも一つ、入れる。アヤの内省が走る前か、走った直後に、外の世界の具体(風、光、音、匂い、相手の動作)が一つ立ち上がるようにする。内省の比重を半分以下に。
選び直された希望は、削れない、と、私は、思っている。思っているだけで、確かめていない。〔……〕私の「どっちでもいい」のうしろにも、ときどき、似た温度が、ある気がする。気がするだけで、いつもそうとは、限らない。〔……〕添えると、四音が、少しだけ、ちがう四音になる、気がする。気がするだけで、まだ、確かめていない。
判定:留保語尾の連打。「気がする/確かめていない/思っているだけで」が一作で五回以上。これは「LLMくささ」#4「安全すぎる留保」の典型。アヤが断言を避ける性格である、という設定を表現するための選択かもしれないが、留保のしかたが定型化している。「〜気がする。気がするだけで、〜」という構文を、書き手が無意識に擦り続けている。
v2の改善:「気がする/確かめていない/思っているだけで」を全体で1〜2回に制限。留保は、文末の常套句ではなく、文の構造そのもので(条件節・反語・問いかけ)出す。
判定:「義務論者のアヤ」というキャラクター設定が、エッセイ毎に「結果に出ない損失を計量する」「他者の選択肢を削らない」「畳まれた中身を雑に開かない」という同じ思考運動として反復されている。設定の正しい運用ではあるが、運用が定型化している。
義務論というのは「重み」「責任」を直接書かなくても、選択の前で立ち止まる動作の手つきとして表れる。問題は、その手つきが毎回同じ形をしていること。「いったん引っ込めて、別の角度から推し量って、また保留する」という同じ運動の反復。
v2の改善:義務論者の手つきを、別の動詞性で出す。「引っ込める→推し量る→保留する」ではなく、たとえば「即答する→即答してから自分の即答に驚く」、あるいは「言わない代わりに別のことをする(買う・歩く・見る)」など、思考ではなく動作で義務論を表現する。
口から出る言葉は、同じ四音だった。〔……〕私の「どっちでもいい」の四音のことを、もう一度、なぞっていた。〔……〕同じ四音の中に、たぶん、いくつかの、ちがう中身が、畳み込まれている。
判定:「四音」というメタ的な数え方が、一作で六回以上出てくる。「どっちでもいい」を「四音」と数え直す動作は、アヤがことばを「言葉そのもの」ではなく「音節の容器」として扱うメタ視点を持つことを示す。これは azuma-otsukare の「四音」(お疲れ)と同じ操作で、シリーズ横断のメタ語彙になっている。
「四音」と呼ばれた瞬間、ことばが手元から離れて、観察対象に変わる。アヤの内省を、書き手の観察に近づけてしまう副作用がある。
v2の改善:「四音」を1回までに制限。ことばを「音節の容器」として数える操作を控え、ことばを発したときの口の中の感触、息の出方、声の高さ、といった身体的な手触りで扱う。
以下は #1 単独の問題ではなく、#1〜#3 を通して反復される構造的な癖。v2 ではこの横断テンプレを意識的に壊す。
以上の十項目および横断テンプレを踏まえて、#1 v2 の改善方針:
v2 が目指すのは、アヤが「どっちでもいい」を引っ込める動作を、内省ではなく、その日のひとつの動作の手つきとして書くことである。
v1 はアヤが頭の中で「どっちでもいい」の四音を解剖した。v2 は解剖をやめる。代わりに、ミユとの中庭の場面ひとつに絞り、ミユの一日の細部(髪、お弁当の中身、ベンチでの座り方、声の調子)を立ち上げる。アヤの内省は、最低限。「どっちでもいい」を引っ込めた、という一つの事実を、引っ込めた瞬間の口の中の感触と、引っ込めた直後にミユが何をしたか、で描く。母も英語も改札も出さない。
結尾は、中庭のベンチを離れる動作で閉じる。納得していない、とは書かない。読者には、引っ込めた言葉の輪郭だけ渡す。読者がその輪郭を埋めるかどうかは、読者の側に置く。