編集部メモ
本ページは、『「考えとく」のいくつか』v1に対する辛口レビューと、v2への改善方針を記録するものである。横山研の生成エッセイは「下書き→辛口レビュー→書き直し」の三稿を残す方針を取っている。
v1は約3000字。アヤのことばのメモ #1「どっちでもいい」を受けて、同じ手つきで「考えとく」の三音を解剖する。第一作で固まりかけたテンプレが、第二作でいよいよ確立してしまっている。以下、十項目で論じる。
v1は読める。読めるが、#1 の構造をほぼそのまま踏襲している。ミユ→母→鈴木先生→ミユ→改札の五場面構成。これは #1 の「ミユ→母→英語の先生→ミユ→改札」とほぼ同型。第一作で起きた配置の図式が、第二作で再演されている。
核となる問題は、同じ短い言葉を、複数の場面で角度を変えて見ていく、というジャンル自体が、繰り返すと自己模倣になるということ。「どっちでもいい」も「考えとく」も、複数の温度を持つ短い日本語であり、その複数性を取り出す手つきは、毎回ほぼ同じになる。書き手は #1 で発見した型を、#2 で安心して再使用している。
もうひとつ、「考えとく」の三音は、時間が入っているという発見が、エッセイの中盤と結尾で二度繰り返される。「同じ三音の中に、ちがう中身」「ちがうのは、時間が、入っている」——この対比構造が、結論を二度提示することで、書き手が答えを抱え込んでしまっている。
木曜のお昼、ミユに本屋を誘って「考えとく」と返ってくる→夕飯後、母に「夏期講習どうする」と聞かれて「考えとく」と返す→金曜の朝、廊下で鈴木先生に「考えてみます」と返す→英語辞書で I'll think about it / Maybe later を引く→土曜にミユから返信→月曜にミユとやりとり→改札の前で別れる。
判定:この八場面構成を骨格に戻すと、「ミユ→母→鈴木先生→英語→ミユ→改札」となる。#1 の「ミユ→母→ジョーンズ先生→ミユ→改札」と完全に同型である。先生の科目が「英語のジョーンズ先生」から「倫理の鈴木先生」に変わっただけで、人物配置の図式は変わらない。
シリーズ第二作で第一作の構造を再使用するのは、ある程度は様式の一貫性として許容されるが、ここまでぴったり同型だと、再使用というより複製である。アヤのその一週間に起きることが、毎回、同じ構造で組み立てられるはずがない。
v2の改善:人物配置を変える。鈴木先生を撤去(#3 で既にやったが、#2 v2 でも先取りで撤去)。ミユの再構成セリフを撤去。ミユでも母でもない第三者(クラスメイト、本屋の店員、家族の他のメンバー)を入れる。改札の前で締めない。
I'll think about it は、約束に、近い、と思った。〔……〕Maybe later は、断りに、近い。〔……〕「考えとく」の三音は、I'll think about it と Maybe later の、両方を、一語で、運んでいる、と思った。
判定:英訳ペア構造の典型的な反復。#1 では I don't mind 単独だったのが、#2 では I'll think about it と Maybe later のペアになり、#3 では after all と I knew it のペアになる。三作通して、英語に訳した瞬間に「日本語は一音でふたつを運ぶ」と気づく、という同じ着地点を共有している。
個別の論じ方も問題。「I'll think about it は約束に近い/Maybe later は断りに近い」は、英語の語感としてもラフな図式化で、実際の英語話者の用法はもっと文脈依存である。アヤがひとりで辞書を引いて、ここまできれいな二項対立に落とすのは、書き手が結論を急いでいる。
v2の改善:英訳ペア構造を撤去。「考えとく」を英語にしようとする発想自体を入れない。日本語のなかでだけ、考える。
ミユの「考えとく」を、断り、と決めつけて、もう誘わない、というのも、できた。けれど、それをすると、ミユの中の、本当に考えてくれた、かもしれない部分を、私が、ゼロに、してしまう。ゼロにするのは、ちがう、と、私は、思った。〔……〕積もったずれは、結果には、出ない。出ないまま、関係の、底の方で、削れる。削れるのを、私は、選びたくない。
判定:#1 の「削れる」が #2 でも反復されている。さらに「ゼロにする」という量化動詞も追加されて、概念依存はむしろ強化されている。「結果に出ない量の損失を計量する」という義務論者アヤの動詞性が、シリーズの定型語彙になりつつある。
「ゼロにする」は数学的な比喩で、アヤが理系寄り(一組設定とも整合)であるとしても、内省の語彙としては抽象度が高すぎる。「ミユのなかの、本当に考えてくれた、かもしれない部分」を「ゼロにする」と数量化する身振りは、義務論を計量倫理学に近づけてしまう。
v2の改善:「削れる」「ゼロにする」を全廃。量化の比喩をやめる。ミユに対して何ができて何ができないか、を、動作の具体だけで書く。
「アヤ、たぶん、私の言葉、私より、長く、持ってる」〔……〕「私が、口から出して、忘れたあとも、アヤの中で、まだ、立ち上がってる」〔……〕「アヤが、長く持ってくれるから、私、雑に、しゃべれる」
判定:#1 の「アヤが決めると、私、安心するから」と完全に同型のミユ・セリフ。ミユがアヤを外側から名指し直し、それを受けてアヤが内省を深める、という構造の反復。さらに #2 のミユ・セリフは三段で進む(「長く持ってる」→「立ち上がってる」→「雑にしゃべれる」)ので、#1 より明示的に「気の利いたことを言う友人」になっている。
ミユのキャラクター造形として、これは危険な兆候である。ミユは、アヤより少し外側にいて、アヤを正しく見抜いて、適切な言葉でアヤをアップグレードする、という装置に近づいている。シリーズの動きが、アヤの内省+ミユの解説、という二人芝居になりつつある。
v2の改善:ミユの再構成セリフを撤去。ミユが何かを言うとしても、アヤの内省の進路を切り開かない、ずれた何か、にする。または、ミユを別の人物に置き換える。
「考えとく、ね」と、お母さんは、繰り返した。繰り返したあとに、お母さんは、台所の電気を、半分、消した。〔……〕「考えとく、って、ちゃんと、考えるんだね」と、笑った。
判定:母の場面が、二回登場する(夕飯後に「夏期講習どうする」、日曜の夕方に「申し込まないことにする」)。二回登場することで、母とアヤの「考えとく」のキャッチボールがエッセイのサブ・スレッドになる。これは構成上の工夫ではあるが、「ミユとの本屋の話」というメイン・スレッドの横に、もうひとつのスレッドを並走させることで、エッセイ全体が長くなり、論点が散漫になる。
さらに、母の二回目のセリフ「考えとく、って、ちゃんと、考えるんだね」は、書き手の主題を母に代弁させている。アヤの自己発見を、母が要約してくれる。これも他者の口を借りた主題明示で、#1 のミユ「アヤが決めると安心する」と機能が同じ。
v2の改善:母の場面を撤去するか、母を別の家族(弟・祖父母など)に置き換える。または、母を出すなら、アヤの主題を要約させない、ずれた発話にする。
「小川さん、進路、考えてみてね」と、先生は、廊下で、言った。〔……〕「考えてみます」のほうが、丁寧で、儀礼的で、相手に、ちゃんと届く形を、している。届く形をしている、ということは、その分、中身が、薄くても、形だけで、成立してしまう、ということだった。
判定:鈴木先生のセクションは、「考えとく」と「考えてみます」の差を取り出すための装置として配置されている。鈴木先生は、火曜三限の倫理の先生として、シリーズ本編 trolley-01〜09 で重要な人物だが、ここでは「儀礼の例を出すための廊下の通行人」として消費されている。シリーズの重要人物を、二音の違いを取り出すための背景として使うのは、人物の重みを軽く扱う身振りである。
さらに「儀礼/中身」の対比は整いすぎている。アヤが廊下で「考えてみます」と返したあとに、自分の応答を「儀礼として、正しく、機能した」とメタに分析するのは、azuma-otsukare-critique.html で指摘した「機能している」のメタ動詞と同じ問題。
v2の改善:鈴木先生のセクションを撤去。シリーズ本編で重要な人物は、番外編で軽く使わない。
三つの形は、口から出た三音の中に、畳み込まれていて、私には、見分けがつかなかった。〔……〕同じ三音の中に、ちがう中身が、いくつか、入っている。〔……〕中身を、開きながら、わたすことは、できない。畳んだまま、わたすしか、ない。
判定:「畳み込まれている」「畳んだまま」「畳み方」というメタ動詞が、シリーズ横断で反復されている。#1 の「畳み込まれている」、azuma-otsukare-v2 の「畳み方を翻訳する言葉は、英語にはない」と地続き。シリーズ全体の語彙テンプレ。
「畳む」という比喩は美しいが、書き手が美しさを自覚して使い始めると、再使用が止まらなくなる。読者は、シリーズ三作目で「また畳み込まれてる」と思ってしまう。
v2の改善:「畳み込まれている」を撤去。短い言葉が複数の温度を持つ、ということを、別の比喩で(あるいは比喩なしで)書く。
残った部分は、削れない、と、私は、思っている。思っているだけで、まだ、確かめていない。〔……〕いい、と、私は、思った。思った、けれど、まだ、確かめていない。〔……〕「考えとく」は、断りでは、なかった、ということになる。なる、と、私は、思った。
判定:「思っている/思った/確かめていない」の連打。#1 と同じ留保構文が、#2 でも踏襲されている。「〜と思った/思っているだけで、確かめていない」は、もはやアヤのトレードマーク化しているが、トレードマーク化した瞬間に文体の癖になる。
v2の改善:「思っている/確かめていない」の連打を全体で1〜2回に。留保は文末ではなく文の構造で。
家の最寄りの駅で、降りて、住宅街を、歩いた。風が、葉を、揺らしていた。葉は、もう、深い緑からは、ちょっとだけ、外れ始めていた。納得は、まだ、していない。していないまま、玄関に、着いた。
判定:#1 と完全に同じ結語。「家の最寄りの駅で、降りて、住宅街を、歩いた。風が、葉を、揺らしていた。〔季節描写〕。納得は、まだ、していない。していないまま、玄関に、着いた」——構造が一字一句近い。#1 で発明された結語フォーマットが、#2 でコピペ的に再使用されている。
季節描写の進行(葉ばかり→深い緑→深い緑から外れ始める)で時間経過を示す工夫は読み取れるが、結語の構造が同じなので、工夫が形だけになっている。
v2の改善:改札の前で締めない。「納得は、まだ、していない/していないまま」を撤去。別の場所、別の動作で閉じる。
「考えてた」という四文字を、書いてくれた、ということは、ミユは、本当に、二日間、ちょっとは、考えてくれた、のかもしれない。〔……〕本当に考えてくれた、かもしれない、を、残したまま、また誘う。残った部分は、削れない、と、私は、思っている。
判定:ミユの返信「考えてたんだけど」の「考えてた」を、アヤが拾って、これがミユの誠実さの証拠だ、と読む処理。これは、書き手が結論を出すために、ミユの言葉のなかから都合の良い証拠を拾っている。「考えてた」は、日本語の自然な言い回しで、誠実の証拠とは限らない。むしろ、断る前置きとしての「考えてたんだけど」のほうが、頻度としては高い。
アヤがこれを「ちょっとは、考えてくれた、のかもしれない」と読むのは、義務論者アヤの善意の解釈として読めなくもないが、書き手がアヤに「正しく」読ませている匂いが強い。
v2の改善:ミユの返信を撤去するか、ミユの返信から都合のよい証拠を拾わない。アヤがミユの「考えとく」をどう受け取るかを、アヤの動作(誘い直すか・誘わないか)で示し、解釈の言語化を抑える。
以下は #1〜#3 を通して反復される構造的な癖。#1 の批判ページにも掲載しているが、#2 はこの横断テンプレへの依存度が最も高い。v2 では意識的に壊す。
以上の十項目および横断テンプレを踏まえて、#2 v2 の改善方針:
v2 が目指すのは、「考えとく」の三音を、日本語のなかで、複数の温度として解剖するのをやめ、ひとつの三音をめぐる、ひとつの場面の事実だけ書くことである。
v1 はミユの「考えとく」を起点に、母の「考えとく」、鈴木先生の「考えてみます」、英語の I'll think about it / Maybe later、と展開した。v2 は展開しない。代わりに、ミユではない人物——本屋の店員——との一場面に絞る。本屋で、店員に「お取り寄せ、どうしますか」と聞かれて、アヤが「考えます」と答える。それだけ。母も鈴木先生も英訳もミユの再構成セリフも出さない。
「考えとく」を、複数の温度のなかから取り出すのをやめ、たった一回の発話の前後に何が起きたか、書く。書き手は答えを抱え込まない。読者には、店員のレジ前のアヤの「考えます」が、二日間どうなったか、書かれない部分のほうを、想像してもらう。