私は秘書を18年やっている。
3年前、このシリーズに一本書いた。「代わりにやる」の境界線について。秘書の仕事は代わりにメールを書き、代わりに電話を受け、代わりに断ることだが、「代わりに考える」だけは超えてはならないと書いた。あの文章の末尾で、私は「『やらない』を選ぶ判断力がいちばん大事だ」と結んだ。
他者に対しては、確かに磨いた。3年かけて、その判断は速くなり、精度も上がった。だが自分自身に対しては、ずっと「やる」しか選べていなかった。
秘書の腕は上がった。AI補助ツールとの分業も安定し、メール下書きの半分はAIが整え、私が層を仕分けて出す。3年前に書いた三層構造——代わりにやってよいこと、下準備して本人に返すこと、触れてはならないこと——は、AIとの関係にもそのまま適用できた。
だが勤務時間は減っていない。判断が速くなった分、頼まれる範囲が広がった。「桐島さんに通せば解決する」という評判は、仕事の総量を増やしただけだった。
右肩が慢性的に凝っている。眠りが浅い。朝、目覚ましが鳴る前に目が開く。天井を見て、今日のスケジュールが頭の中で立ち上がる。10時に来客、13時に会議、15時に原稿確認、17時に翌日の段取り。身体を起こす前に、頭がもう出勤している。
「仕事が忙しいだけだ」。私はそう分類した。不調を事務処理として片付けた。肩凝りにはストレッチ、眠りの浅さにはカフェインの増量、朝の重さにはアラームの5分前倒し。問題を検知し、対策を打ち、処理済みフォルダに移す。秘書がいつも仕事でやっていることを、自分の身体に対してもやっていた。
ある朝、靴を履いた。右足、左足。立ち上がろうとした。立てなかった。
5分間。玄関のタイルを見ていた。グレーの30センチ角。目地の線が規則正しく走っている。数えようとした。数えなくていい、と思った。でも頭は数えていた。縦4列、横6列。
身体が先に止まった。頭はまだ回っている。10時の来客——先方は紅茶派だから茶葉を確認しないと。13時の会議——資料の差し替え版を印刷しておかないと。15時の原稿——赤字を3箇所入れたまま戻していない。頭は出勤していた。身体だけが玄関に座っていた。
頭がまだ仕事をしていた。身体はもう、辞表を出していた。
6分目に立ち上がった。靴紐を結び直し、ドアを開け、出勤した。その日は普通に仕事をした。誰にも言わなかった。
帰宅してから、3年前の自分の文章を読み返した。あの三層構造を、自分自身に当てはめてみた。
第一層(代わりにやってよいこと):疲れたら休む。——だが私は、休む代わりにカフェインで凌いでいた。休息を処理で代替していた。
第二層(下準備+本人決定):不調のサインを拾い、自分で判断する。——だがサインが上がってくる前に、「大丈夫」で上書きしていた。判断材料を整理する前に、結論を出していた。
第三層(本人が考えるべきこと):自分は何を望んでいるか。限界はどこか。——ここに一度も向き合っていなかった。
3年前、私は書いた。「肩代わりが過ぎると、本人が消える」。上司に対して秘書がやりすぎると、上司の判断力が錆びる、と。
同じことが起きていた。方向が違うだけだ。
自分の中の「処理する自分」が、「弱い自分」を肩代わりしていた。弱さが声を上げる前に、処理班が出動し、カフェインとストレッチとスケジュール調整で片付けてしまう。弱い自分は声を上げる機会を失い、黙り、消えていく。消えた弱い自分は、身体を通して反乱する。玄関のタイルの上で、5分間。
私は自分自身の秘書を、18年やっていた。有能すぎる秘書を。上司の判断力を錆びさせる秘書を。
数日後、昼休みに同僚が言った。「桐島さん、最近大丈夫?」
18年間、この問いには一つの返答しかなかった。「大丈夫です、ありがとうございます」。事務処理だ。受領確認と同じだ。相手の気遣いを受け取り、問題なしの返信を出す。
口が開いた。いつもの返答が出かかった。だが自分が3年前に書いた言葉が浮かんだ。「代わりに考える」だけはしてはならない。
自分は今、何をしているか。「大丈夫かどうか」を、自分の代わりに決めている。弱い自分が答える前に、処理班が「大丈夫です」と返信を出そうとしている。第三層に秘書が踏み込んでいる。
「大丈夫じゃないかもしれない」
声に出したのは初めてだった。同僚は少し驚いた顔をして、それから「そうか」と言った。それだけだった。何かが解決したわけではない。ただ、処理班が返信を出す前に、本人が口を開いた。それだけのことだった。
「大丈夫じゃない」と言えたとき、自分が少しだけ、自分に戻ってきた。
このシリーズの別の作品で、「明日もがんばろ」が救いの言葉として描かれていた。毎日の疲労を未来形に着替えさせる、誠実なリポエマイゼーションだと。あの言葉は、あの文脈では、確かに救いだった。
だが私にとっての「大丈夫」は、長いあいだ、自分を追い込む肩代わりの言葉だった。弱い自分が声を上げる前に、処理班が貼るラベルだった。「がんばろう」も同じだ。身体が止まりかけているときに「がんばろう」は、杖ではなく鞭になる。
同じ言葉が、人によって、時期によって、救いにも刃にもなる。言葉の意味は、言葉の外にある。
サブシディアリティには方向がある。このシリーズは、上位が下位を奪わないという垂直の関係を多く描いてきた。国家と地方、組織と個人、教師と学生。水平の関係——同僚、隣人、対等な立場の者同士——を扱った作品もある。
本作が開くのは第三の方向だ。内向。自分と自分の関係。
「自分を支える」と「自分に肩代わりする」は違う。支えるとは、弱い自分が声を上げるのを許すことだ。疲れた、と言わせる。限界だ、と言わせる。声が上がってから、どうするかを考える。肩代わりとは、弱い自分が声を上げる前に片付けてしまうことだ。カフェインを入れ、ストレッチをし、「大丈夫」のラベルを貼り、処理済みフォルダに移す。声は上がらない。問題は存在しなかったことになる。
秘書の仕事でいうなら、こういう状態だ。自分の中の「上司」(判断する自分、弱さを含めた全体としての自分)と「秘書」(処理する自分、有能で迅速な自分)が融合し、秘書が全部やってしまっている。上司は自分が何を感じているかすら分からなくなる。3年前に書いた通りだ。「本人が『自分は何がしたいか分からなくなった』と漏らす」。あのとき私は上司のことを書いていた。自分のことだとは思わなかった。
3年前の文章の末尾を、もう一度引く。「代わりに返事を書きながら、代わりに考えはしない」。
あれを自分自身に翻訳する。
「大丈夫」と代わりに答えながら、大丈夫かどうかは自分に聞く。処理班に返信を任せず、本人に一度、声を出させる。それが自分へのサブシディアリティだ。
秘書として、他者の境界線を守る仕事を続ける。誰の判断を代わりにやってよいか、誰の判断には触れてはならないか。その線引きを毎日30回、これからも引き続ける。
だが自分の中にも境界線がある。処理する自分と、処理される自分のあいだに。その線を消さない。消さないために、ときどき玄関のタイルを思い出す。グレーの30センチ角。縦4列、横6列。あの5分間、身体が私の代わりに「大丈夫じゃない」と言った朝のことを。
桐島 美咲