『経験の少ない人』ネタ晴らし
何を書きたかったか

対象:『経験の少ない人——カフェの午後・1』

吹上のル・ジャルダンで、隣の席の会話が聞こえた。

大学生らしい女性が二人。片方が、こう言った。

イケメンで陽キャじゃないと、経験が少なくて、話がつまらない。

そのあとしばらく、下ネタを言う男の話と、アホなことをする男の話が続いた。声は大きかった。黒のワンピースで、化粧はきちんとしていて、髪の色も手が入っていた。連れの人は、もっと肌の出る服で、髪はまっすぐ長かった。

最初に浮かんだ言葉は、書かないでおく。たぶん多くの人が同じことを思う。浅いな、と切り捨てるのはとても簡単で、そして、そう思った時点でこちらの負けだと、すぐに気づいた。

彼女が言っていたことは、正しい。

言い直すと、こうなる。

容姿と外向性がある → 誘われる回数が増える → 経験が溜まる → 話が面白くなる → さらに誘われる

持っている人のところに、さらに集まる。この形には名前がついていて、社会学でも科学計量学でも、繰り返し確認されてきた分布の作られ方である。彼女はそれを、教科書も統計も経ずに、二十歳で、婉曲表現なしで言い当てていた。

大人はふつう、同じことをもっと遠回しにしか言わない。「機会に恵まれた人は伸びますよね」とか。中身は一字も変わらない。

それで、書きたくなった理由の本体はここから先である。

同じ構造が、私の職場にもある。

よく知られている研究者ほど講演に呼ばれる。呼ばれるから新しい話を仕入れる。仕入れるから話が面白くなる。面白いからまた呼ばれる。引用が引用を呼ぶのも同じで、読まれている論文はさらに読まれ、読まれていない論文はそのまま沈む。中身の差だけでそうなっているわけではない、と誰もが知っていて、口には出さない。

私は、その構造の受益者の側にいる。

だから、あのカフェの発言を「若い女性の浅い恋愛観」として処理してしまうと、いちばん大事なところを取り逃がす。彼女は、私が黙って享受している仕組みを、声に出して言っただけである。

ここまでが動機で、以下が設計。

一人称で書くと決めた。外から論評する語り手を置いた瞬間に、読者は安全な場所から彼女を見下ろせてしまう。中年の男が隣の席で深く頷いている——そういう構図は、この題材でいちばんやってはいけない。

そのうえで、視点を三つ用意した。

  1. 理屈を語る側(瀬川千遥)。正しいことを言っている。そして、その正しさに自分が追い詰められている
  2. 聞いている側(戸倉ののか)。相槌だけで九十分を持たせている。彼女は理屈の中で「実例」として扱われている
  3. 話題にされている側(辻ワタル)。下ネタを言う男。勝者に見えるが、内側から見ると当番である

三つ書き終えたときに、誰も間違っていなかったという形になっていればいい。告発でも和解でもなく、全員が同じ仕組みの中で別々にすり減っている、というだけの話にしたかった。

千遥については、仕掛けを三つ埋めた。

  1. 彼女が話す話は、全部、他人がやったことである。九十分、主語が一度も自分にならない。彼女の理屈に照らすと、彼女自身が「経験の少ない人」に分類される
  2. 「陽キャがいい、でも下ネタとアホは無理」は成り立たない。下ネタもアホな行動も、外向性が生む副産物そのものである。彼女は歩留まりだけを欲しがっている
  3. 黒のワンピースと化粧と髪は、軽薄さの記号ではない。維持費と予約枠と時間のかかる投資である。理屈が正しいなら、投資を止めた年は必ず負ける。浅さではなく、理屈を持ってしまった人の不安として書きたかった

第一稿は、この三つを全部きちんと書いて、そして失敗した。

独立の批評役に読ませたところ、いちばん痛いところを突かれた。

ここで作品の仕掛けを本人が完全に解説してしまい、読者が会話から気づく余地を奪っています。

「九十分のあいだに自分が出した話の主語は、どれも別の人だった」——第一稿には、そう書いた段落があった。いちばん見せたかったものを、地の文で説明してしまっていた。読者が自分で気づく機会を、作者が先回りして潰していた。

「書くな、見せろ」と自分で決めておいて、その決めた当人が守れていない。よくある失敗で、他人に指摘されるまで見えない類のものだった。

第二稿で入れ替えたのは、次の三点。

1. 説明の段落を丸ごと捨てた。代わりに、ののかが「千遥は? 夏、なんかした?」と聞く場面を置いた。千遥は少し考えて、結局よその人の話を始める。地の文は何も言わない。

2. 象徴を減らした。グラスの氷が意味ありげに揺れるのをやめた。かわりに、染め直しは三週間ごとで、土曜に回すと二千円上がる、という金額と予定表にした。

3. 結末で救わないことにした。批評役は「友人の評価で赦してはいけない」と言った。半分だけ受けた。ののかの「千遥は話、面白いよ」は残し、そのすぐあとに、千遥が反射でまた他人の話を始めるようにした。褒められて、その場で証明してしまう。本人は気づかない。ののかは笑う。仕組みはそのまま回り続ける。

書かなかったことも、いくつかある。

ル・ジャルダンの店内は、ほとんど描いていない。実在の店なので、覚えていない造作を埋めて書くわけにはいかない。冷房の風の当たり方と、ぐらつくテーブルと、隣の席が就活の話をしていたこと。それくらいで止めた。

二人が誰だったかも、書きようがない。服装と声しか知らないし、それ以上を知る必要もない。作中の二人は、あの日の二人ではなく、こちらで組み立てた別人である。実際に書けたのは、聞こえてきた一文と、それが自分の職場にも当てはまるという発見だけで、残りは全部つくりものだと明記しておく。

最後に、まだ書いていないものを。

千遥の三年後を書きたいと思っている。就職活動で「学生時代に力を入れたこと」を聞かれる場面である。あそこは、経験のストックを公式に換金させられる、たぶん人生でいちばんあからさまな窓口だ。彼女の理屈はそこで正しさを証明され、同時に、いちばん残酷な形で請求書になる。

第二稿の隣の席で、就活生が「御社」と言い続けているのは、そのためである。

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このページは書き手による制作意図の記録です。第一稿と辛口レビューは AI(ChatGPT)が生成し、第二稿は人手で書き直しています。作中人物はすべてフィクションで、実在の個人とは関係ありません。