題材の選び方自体は悪くないが、書きぶりが「昭和語を懐かしむ一般論」に早々に着地しており、読後に作者固有の体温が残らない。具体語を扱っているのに、実際に見聞きした現場の細部よりも、あとから載せた社会学的説明が前に出ている。そのため、記憶を掘る文章ではなく、無難に整理された回顧コラムになっている。いちばん弱いのは、断言すべきところで逃げ、観察すべきところで要約し、最後に自分を穏当に赦してしまう点だ。
少し寂しい気もするが、これも時代の流れというものだろう。
ここは読者が二段落前から完全に予測できる着地点で、落ちた瞬間の驚きがない。「昔の含みは失われた、でも時代だから仕方ない」という和解は、いちばん安全で、いちばん薄い結論だ。せっかく職場語という棘のある題材を選んだのに、最後だけ角を全部丸めている。
まるで、時代の地層に埋もれて消えた古代都市のようだ。
この比喩は大きすぎるわりに、本文のどの観察にも接続していない。古代都市という壮大な絵を出した瞬間、職場の言葉の話が急に既製品の叙情に変わる。記憶の手触りではなく、「エッセイらしい比喩を置いた」感じが先に立つ。
平成の中頃にはほとんど聞かなくなったように思う。/大きかったのではないだろうか。/苦肉の策だったのかもしれない。/失われつつあるのかもしれない。
この文章は経験者の回想なのに、語尾がずっと腰引けている。証明責任を避けたい気配ばかりが残り、語り手の輪郭が弱くなる。自分が現に見たことは断言し、推測は推測として一度だけ使うくらいで十分だ。
男性社員はデスク、女性社員は急須と湯呑みを手にフロアを歩く。/上司が部下を会議室に呼び出し、「君の席はもうない」と遠回しに告げる場面を何度か目にした。
どちらも「それっぽい職場風景」ではあるが、細部が既製品で、実見の固さがない。急須の色、湯呑みの柄、会議室の空気、誰が視線を逸らしたか、その一個がないから、読者は作者が本当にその場にいたと信じきれない。「君の席はもうない」は映画の台詞であって、現実の日本企業の言い回しとしてはむしろ出来すぎている。
これらの言葉が消えていった背景には、社会全体の価値観の変化、経済状況、テクノロジーの進歩が複雑に絡み合っている。言葉は生きており、時代を映す鏡だとはよく言ったものだ。
ここで一度、文章が完全に解説文へ逃げている。しかも「価値観」「経済状況」「テクノロジー」と並べた時点で、ほぼ全部言ったことになってしまい、何も言っていないのに等しい。回想の途中で総論を回収しに行くせいで、余韻ではなく処理感が出る。
奇妙な「遺物」/時代の地層/掘り起こしてみよう/過去の遺物
考古学モチーフを何度もなぞるせいで、装置が象徴ではなく説明の補助輪になっている。一度効かせるならいいが、繰り返すほど「この文章はこう読んでください」という押しつけになる。比喩は増やすほど深くなるのではなく、しつこくなる。
現代はより直接的で明確なコミュニケーションが求められる時代へと変わった。
この一文は、職場語の話でなくても、SNS論でも、教育論でも、接客論でもそのまま使える。つまりこの作者でなくても言えるし、この題材でなくても言える。エッセイでいちばん削るべきなのは、正しいが誰のものでもない文だ。
どちらが良い悪いではないが、かつての言葉が持っていた独特の「含み」のようなものは、失われつつあるのかもしれない。少し寂しい気もするが、これも時代の流れというものだろう。
この締めは、「昔を惜しむが説教はしない、分別ある元会社員」という安全なキャラ印そのものだ。だがその穏当さの裏で、かつての言葉が孕んでいた差別や権力勾配への自分の立場表明を回避している。結びで人格の感じのよさを守りに行くと、文章の責任が消える。
残すべき核は、「消えた職場語を通して、自分がいた会社の空気の歪みを照らす」という一点だけだ。改稿では用語を三つ並べて説明するのではなく、一語につき一場面に絞り、誰が何を言い、どんな顔をし、そこで自分は何を見て何を見ないふりをしたのかまで書くべきだ。比喩と総論は大幅に削り、最後も「時代だから」で逃がさず、その言葉を当時どう受け取り、今どう思い返しているのかを自分の責任で言い切ると、初めて作者の文章になる。