ドヒカナデ(32歳・点字図書館の点訳校正員10年)
点字には漢字がない。墨字なら漢字が「ここが語の境目だ」と教えてくれるけれど、点字は仮名と空白だけで進む。だから語の切れ目に空白を入れて読みやすくする。分かち書きという。墨字なら目が一目で見渡す一行を、指は左から右へ一粒ずつたどる。空白は息継ぎではない。指が今どの語にいるかを見失わないための、現在地の標(しるべ)だ。
点訳者から上がってきた校正紙には、付箋が貼ってある。たいてい一行だ。「ここはどこで切りますか」。点訳者は墨字を点字に訳す人で、私はそれを確かめる側にいる。分かち書きは『日本点字表記法』に規則があるが、規則の網は固有名詞も新語もすくいきれない。だから訳す手と確かめる指が、一字分の空白をめぐって相談する。決めるのが仕事だ。迷ったら点訳者に戻す。
表記法は数年に一度改訂される。やっかいなのは、改訂前に訳した本が、もう棚に並んでいることだ。ある推理小説のシリーズは、三巻までが旧い切り方、四巻からが新しい切り方になっている。同じ著者の同じ探偵の名を、利用者は三巻と四巻で違う空白で読む。私はそれを直さない。直せば全冊を訳し直すことになる。棚の上で、語の切れ目が世代をまたいで食い違っているのを、私は知っていて並べている。
相談がいちばん多いのは、辞書にない語だ。新しい配信サービスの名、誰かが去年作ったばかりの言葉。机の引き出しに、新語の切り方を書きためたノートがある。先日は、カタカナ七文字の社名で点訳者と止まった。前の三文字は英語の略、後ろの四文字は普通名詞。意味のまとまりはどこか。私たちは語を分解して、ここで切れば前半が一語の塊として立つ、と決めた。決めた切り方を、私はノートの新しい行に書く。次に誰かが同じ語に出会ったとき、この一行が前例になる。
けれど、机の上でいくら決めても、最後に決めるのは私ではない。利用者からの意見カードが届く。先月の一枚にはこうあった。「あの長いカタカナの名前、二度なぞって、まだどこからどこまでが一語か分からなかった」。二度なぞった、という指の動きだけが書いてある。目で形を見て決めた私の空白を、その人は指で渡れなかった。私はノートのその行に、棒線を引いて切り方を変えた。指で読む人の手が、私の目より上にある。
点訳者の多くは高齢になってきた。新人の講習会を、私はときどき手伝う。テキストの分かち書きの章には、「ははとはなし」を切る例題が載っている。十年前、私が指導役と十分かけて切り方をもめた、あの語だ。新人がその行で鉛筆を止めて、どこで切るかを迷っている。私は答えを言わない。隣の机で、私も同じ語の付箋を貼っている。
通し校正は、一冊を最初から最後まで、同じ語が同じように切られているかだけを見る作業だ。第一章で決めた探偵の名の切り方が、第八章で揺れていないか。その語が出るページの端に、私は付箋を貼っていく。読み終えると、本の天(てん)から付箋が短冊のように並ぶ。横から眺めて、付箋の出っ張りが一直線に揃っていれば、切り方は一冊を通して揃っている。一枚だけ列から外れて飛び出していたら、そのページで空白が一つずれている。
今日も校正紙に、付箋が一枚貼ってある。「ここはどこで切りますか」。私は語を指で分解して、前例のノートを繰り、それでも決まらないところに鉛筆で訊き返す。棚では、三巻と四巻が違う空白のまま並んでいる。引き出しのノートには、棒線で消した切り方が一行ある。机の上の付箋の列は、まだ揃っていない。